2016年4月11日月曜日

ブッダに救われた男女の告白

50時間で、5時間ほどしか寝れなかった週末。

フラフラはしていたけれど、不思議と疲れを感じない。

「情(なさけ)妙法に存する故に、心身に懈倦なかりき」という法華経の御文も本当、真実ですね。

「スリランカと仏教展」という大作のポイントは、「世界遺産に隠された物語」と題されたサブタイトルにあるとおりです。

世界初の展示に挑戦しています。

世界最古の仏教国、スリランカには8つの世界遺産があります。

その一つ、アヌラーダプラにある「アバヤギリ大塔」。

この巨大な仏教遺跡は、誰もがテーラワーダ(上座部仏教・小乗仏教)の国として認識しているスリランカにあって、かつて「大乗仏教の総本山」として栄えていた巨大な遺構です。

上座部が伝える『マハーワンサ』という歴史書は、五世紀に書かれた法顕の『仏国記』、七世紀に著された玄奘三蔵の『大唐西域記』と異なり、大切なスリランカの歴史を埋もれさせてしまっていることが分かってきました。

紀元前一世紀に建立されたアバヤギリ大塔は高さ百メートル、大乗仏教の僧侶たちが多く修行し、法顕が訪れた五世紀には五千人の僧侶たちが起居していました。

しかし、十二世紀になって上座部と大乗仏教の対立が激しくなり、ついに僧侶同士の殺戮にまで発展したというのです。

およそ五百人の僧侶がアバヤギリ大塔の前で殺害され、スリランカの大乗仏教は滅びました。

今回の企画展では、そうした隠された史実を丁寧に紐解いてゆきます。

企画展のポイントは、そうした史実、事実を積み上げ、ご紹介しながら、人類にとって希有の思想、信仰、仏教の持つ本来の姿を浮かび上がらせてゆくことです。

見応えのある展示を、どうかゆっくりとご覧くださいませ。

初日を迎えた昨夜も、遅くまで展示を続け、最後に残されていた付録のような部分のパネルを取り付けました。

この部分も、「世界遺産に隠された物語」の主旨を補強するために、是非ご紹介させていただきたかったパートです。

上座部仏教に限らず、人間の業として、あらゆる組織は形骸化し、権威主義化して、本質を見失うことがあるものだから。

失ってはいけない仏教の輝き、ブッダの深い慈悲、温かいご奉公の姿、そして弟子や信徒たちの感激、感動。

スリランカに伝わり、しかしテーラワーダではあまり大きく取り上げないパーリ語の聖典に、『テーラーガーター』と『テーリーガーター』などがあります。

この中には、上座部仏教が発展してゆく過程の中で、ブッダや僧伽(サンガ)の権威を押し上げるために、様々なボーダー(境界)を設けてきたことに気づける記述がたくさんあります。

ブッダは、弟子や信徒の区別なく、親しくご奉公されたこと。

男女に対しても分け隔てなく、慈悲深くご奉公くださったこと。

『テーラーガーター』と『テーリーガーター』は、「仏陀に救われた男(仏弟子)女(尼僧)の告白」であり、詩句ではあるものの、感情や感動に溢れた信仰者たちの肉声です。

ブッダは、おぞましい生活を強いられ、誰もが眉をひそめるような境遇に陥っている人びとに語りかけ、救い出していたことを分かっていただけると思います。

そして、これらを読み返すことにより、なぜ、いま、スリランカに、法華経の一仏乗の教えが弘まっているかを、感じていただければと思います。

以下、京都佛立ミュージアムまでお越しいただける方も少ないと思いますので、参考に展示の冒頭と、聖典の一部をご紹介します。

「原始仏典を紐解くと、ブッダは決して権威主義的でなかったことが分かります。同時に、ブッダと弟子・信徒の距離は極めて近く、男女の区別も差別もなかったことが分かってきました。

原始仏典では、ブッダは自分のことを「人間」であると言い、「善き友人(善知識)である私」と語り、弟子たちもブッダのことを「尊き師」「ブッダ」と呼びつつ、「かのゴータマ」「ゴータマさん」「君よ」「かれ」などとも呼んでいます。

スリランカにも伝わるパーリ語の原始仏典『テーラ・ガータ』『テーリー・ガーター』には(『仏弟子の告白』『尼僧の告白』中村元/岩波文庫)、男女の区別も差別もないブッダの見解が生き生きと描写されているのです。特に、尼僧の告白を読むと、仏陀の慈悲深い教導を知ることが出来ますし、女性たちの生き生きとした体験や堅固な信仰心が伝わってきます。」

< therîgâtâ(テーリーガーター) 【 八つの詩句の集成 】 >

196.〔シースーパチャーラー尼いわく、――〕「戒行を具現している尼僧は、感官をよく慎しみ、飽きることの無い、味わいのある静けさの境地に到達するであろう。」
197.〔悪魔いわく、――〕「三十三神(忉利天)と、ヤーマ天と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽天の神々と、〔化他〕自在天の神々は、――かつて以前にあなたが住んだことのあるこれらのところに〔生まれようと願って〕心を専念なさい。」
198.〔シースーパチャーラー尼いわく、――〕「三十三天とヤーマ天とトゥシタ天と、化楽天なる神々と、〔他化〕自在天なる神々は、
199.繰り返し、一つの生存から他の生存へと、〔生まれかわりつつ〕己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超えることができない。
200.全世界は(欲望の火が)燃え立っている。全世界は焼かれている。全世界は焦がされている。全世界は揺らいでいる。
201.動揺することなく、比類なく、凡夫の実践しなかった真理の教えを、ブッダは、わたしに説き示されました。わたしの心は、それを楽しんでいるのです。
202.かれのことばを聞いて、わたしはその教えを楽しんで、日を送っていました。三種の明知に到達しました。ブッダの教え〔の実行〕は、なしとげられました。
203.快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明〕の闇黒の塊は、破り砕かれました。悪魔よ。このように知れ、――そなたは打ち敗(ま)かされたのだ。滅ぼす者よ。」
 シースーパチャーラー尼
八つの詩句の集成おわる。

8. Aṭṭhakanipāto. 
8. 1. 
196. Bhikkhunī sūlasampannā indriyesu susaṃvutā, 
Adhigacche padaṃ santaṃ asevanakamojavaṃ. 
197. Tāvatiṃsā ca yāmā ca tusitā cāpi devatā. 
Nimmāṇaratino devā ye devā vasavattino, 
Tattha cittaṃ paṇidhehi tattha te vusitaṃ pure. 
198. Tāvatiṃsā ca yāmā ca tusitā cāpi devatā, 
Nimmāṇaratino devā ye devā vasavattikano. 
199. Kālaṃ kālaṃ bhavābhavaṃ sakkāyasmiṃ purakkhatā, avitivattā sakkāyaṃ jātimaraṇasārino. 
200. Sabbo ādipito loko sabbo loko padipito, 
Sabbo pajjalito loko sabbo loko pakampito. 
201. Akampiyaṃ atuliyaṃ aputhujjanasevitaṃ, 
Buddho ca dhammaṃ desesi tattha me nirato mano. 
202. Tassajahaṃ vacanaṃ sutvā vihiṃ sāsane ratā, 
Tisso vijjā anuppattā kataṃ buddhassa sāsanaṃ. 
203. Sabbattha vihatā nandi tamokkhandho padālito, 
Evaṃ jānāhi pāpima nihato tvamasi antakāti. 
Itthaṃ sudaṃ sīsūpacālā theri gāthāyo abhāsīti. 
Sīsūpacālātherigāthā 
Aṭṭhakanipāto niṭṭhito. 


< therîgâtâ(テーリーガーター)【 十二の詩句の集成 】 >
224.わたしたち、母と娘の両人は、同一の夫を共にしていました。そのわたしに、未だかつてない、身の毛もよだつ、ぞっとする思いが起りました。――
225.厭わしいかな! 愛欲は不浄で、悪臭を放ち、苦難が多い。――われら、母と娘とが同じ夫を共にするとは!
226.もろもろの欲望には患(わずら)いのあることを見て、また世を捨てて出離することがしっかりとした安穏であると見て、わたしは王舎城において出家して、家に在る生活から出て、家無き生活に入りました。
227.わたしは、前世のありさまを知り、すぐれた眼(天眼)を浄めました。他人の心の中を見通す知慧が起り、聴力が浄められました。
228.わたしは神通力を現に体得し、わたしは煩悩の消滅に達しました。わたしは、六つの神通力を現に体得しました。ブッダの教え〔の実行〕がなしとげられました。
229.わたしは、神通力によって四頭立ての馬車をつくり出し、〈栄光あるこの世の王・ブッダ〉の両足に〔頭をつけて〕敬礼して、〔一方に立ちました。〕
230.〔悪魔は言った、――〕「頂きに花が咲き満ちている樹に近づいて、あなたは独りで、樹の根もとに立っておられる。そうして、あなたには、伴侶(とも)がだれもいない。若い女よ。そなたは、悪者どもを恐れないのか?」
231.〔ウッパラヴァンナー尼いわく、ーー〕「たといこのような悪者が百・千人(十万人)も集まって来ようとも、わたしは毛筋一本も動かしますまい。震えもしません。悪魔よ。そなたは、ひとりで、わたしに何をしようとするのですか?
232.このわたしは、姿をかくすこともできます。あるいは、そなたの腹のなかに入ることもできます。また、わたしは〔そなたの〕眉と眉との間に立つこともできます。そなたは、わたしが立っているのを、見ることはできないでしょう。
233.けだし、わたしは心を克服しました。超自然力をよく修めました。わたしは六つの神通を現に体得しました。ブッダの教え〔の実行〕をなしとげました。
234.もろもろの欲望は、刀と串に譬えられる。それらは、〔個人存在の五つの〕構成要素の集まりの断頭台である。そなたが〈欲楽〉と呼んでいるものは、いまや、わたしにとっては〈楽しませないもの〉である。
235.快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明の〕闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、ーーそなたは打ち敗(ま)かされたのだ。滅ぼす者よ。」
ウッパラヴァンナー尼
 十二の詩句の集成おわる。

12. Dvādasanipāto. 
12. 1 
224. Ubho mātā ca dhītā ca mayaṃ āsuṃ1 sapattiyo. 
Tassā me ahu saṃ vego abbhuto lomahaṃsano. 
225. Dhiratthu kāmā asuci duggandhā bahu kaṇṭakā, 
Yattha mātā ca dhītā ca sabhariyā mayaṃ ahuṃ. 
226. Kāmesvādīnavaṃ [PTS Page 145] [\q 145/] disvā nekkhammaṃ daṭṭhu khemato, 
Sā pabbaji rājagahe agārasmānagāriyaṃ. 
227. Pubbenivāsaṃ jānāmi dibbacakkhuṃ2 visodhitaṃ, 
Cetopariccañāṇañca sotadhātu visodhitā. 228. Iddhīpi me sacchikatā patto me āsavakkheyo, 
Chaḷabhiññā sacchikatā kataṃ buddhassa sāsanaṃ. 
229. Iddhiyā abhinimmitvā caturassarathaṃ ahaṃ, 
Buddhassa pāde vanditvā lokanāthassa tādino. 
230. Supupphitagga upagamma pādapaṃ
Ekā tuvaṃ tiṭṭhasi sālamūle, 
Na cāpi te dutiyo atthi koci
Na tvaṃ bāle bhāyasi dhuttakānaṃ. 
231. Sataṃ sahassānapi dhuttakānaṃ
Samāgatā edisakā bhaveyyuṃ
Lomaṃ na iñje napi sampavedhe
Kiṃ me tuvaṃ māra karissaseko. 
232. Esā antaradhāyāmi kucchiṃ vā pavisāmi te
Bhamukantare vā tiṭṭhāmi tiṭṭhantiṃ maṃ na dakkhasi. 
233. Cittamhi vasībhūtāhaṃ iddhipādā subhāvitā, 
Cha me abhāññā sacchikatā kataṃ buddhassa sāsanaṃ. 
234. Sattisūlūpamā kāmā khandhāsaṃ adhikuṭṭanā, 
Yaṃ tvaṃ kāmaratiṃ brūsi aratīdāni sā mama. 
235. Sabbattha vihatā nandi tamokkhandho padālito, 
Evaṃ jānāhi pāpima nihato tvamasi antakāti. 
Itthaṃ sudaṃ uppalavaṇṇā therī gāthāyo abhāsīti. 
Uppalavaṇṇātherīgāthā. 
Dvādasanipāto niṭṭhito. 

< SAMYUTTA NIKAYA(サンユッタニカーヤ) >

「(自らを)慚(は)じることは、その車の制御装置であり、念(おも)いを正していることはその囲幕である。私は法(真理の教え)を御者と(呼び)、正しく見ること(正見)を先導者と呼ぶ。女性であれ、男性であれ、その人の乗り物がこのようであれば、その人は実にこの乗り物によってまさにニルヴァーナ(涅槃)のそばにいる」(SAMYUTTA NIKAYA Ⅰ.5.6 第Ⅰ篇「神々についての集成」第五章「燃えている」第六節「天女」)

「生まれを尋ねてはいけない。行いを尋ねよ。火は実に木片から生じる。卑しい家柄〔の出〕であっても、堅固で、慚愧の念で自らを戒めている賢者は、よき生まれの〔すなわち高貴の〕人(ajaniyo)となるのである。」(SAMYUTTA NIKAYA VII.1.9 第VII篇「バラモンに関する集成」第一章「敬わるべき人」第九節「スンダリカ」)


< Sutta Nipāta(スッタニパータ) >

136.生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(Sutta Nipāta 第一「蛇の章」七「賤しい人」)
136. Na jaccā vasalo hoti na jaccā hoti brāhmaṇo, 
Kammanā vasalo hoti kammanā hoti brāhmaṇo. 


607.これらの生類は生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類はそのように生まれにもとづく特徴がいろいろとことなっているということはない。
608.髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても
610.〔中略〕についても、他の生類の間にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611.身体を有する(異なる)生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別(差別)は存在しない。言葉によって人間の間で差別が存在すると説かれるのみである。(Sutta Nipāta 第三「大いなる章」九「ヴァーセッタ」)

607. Pādudare'pi [PTS Page 118] [\q 118/] jānātha urage dighaṭiṭṭhike, 
Liṅgaṃ jātimayaṃ tesaṃ aññamañña hi jātiyo. 
608. Tato macche'pi jānātha odake vārigocare, 
Liṅgaṃ jātimayaṃ tesaṃ aññamaññāhi jātiyo 
609. Tato pakkhipi jānātha sattayāne vibhaṅgame, 
Liṅgaṃ jātimayaṃ tesaṃ aññamaññā hi jātiyo. 
610. Yathā etāsu jātisu liṅgaṃ jātimayaṃ puthu, 
Evaṃ natthi manussesu liṅgaṃ jātimayaṃ puthu. 
611. Na kesehi na sisena na kaṇṇehi na akkhihi
Na mukhena na nāsāya na oṭṭhehi hamuhi ca. 

650.生まれによって〈バラモン〉となるのではない。生まれによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。
651.行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって上人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人(やといにん)となるのである。
652.行為によって盗賊ともなり、武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。
653.賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
654.世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く軍が轄(くさび)に結ばれているように。(Sutta Nipāta 第三「大いなる章」九「ヴァーセッタ」)

650. Pubbe nivāsaṃ yo vedi saggāpāyañca passati, 
Atho jātikkhayaṃ patto tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ 
651. Samaññā hesā lokasmiṃ nāmagottaṃ pakappitaṃ1-
Sammuccā samudāgataṃ tattha tattha pakappitaṃ2- 
652. Digharattamanusayitaṃ diṭṭhigatamajānataṃ, 
Ajānantā te3- pabruvanti jātiyā hoti brāhmano 
653. Na jaccā brāhmaṇo hoti na jaccā hoti abrāhmaṇo
Kammanā brāhmaṇo hoti kammanā hoti abrāhmaṇo. 
654. Kassako kammanā hoti sippiko hoti kammanā, 
Vāṇijo kammanā hoti pessiko hoti kammanā. 

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