本日、126年目の開導聖人の祥月ご命日にあたり、日聞上人のお書きになった『御遷化略記』を読ませていただきたいと思いました。
少しでも開導聖人の御遷化を身近に感じていただければ、その哀しみも分かり、報恩の想いも増すのではないかと思います。
私は、そのように思いました。
当時の文章、日本語の読み方は難しいのですが、何とか読み進めてゆくと、感じられます。
御遷化略記 書写
御教歌
「おもひ見ればとしは七そじあまりよつ 御用済にて帰るのであろ」
「思い返せば年は七十有四才となった。仏祖から頂戴した御用命を果たして帰る時が来たのであろう。」
この御教歌は、ご遷化の二日前、明治二十三年七月十五日に、開導聖人が神戸のご信者 浅田米吉氏宛にお出しになったお手紙の末尾に記された一首です。開導聖人はすでにご遷化の時が訪れたことをご自身で自覚なさっていたと拝察させていただくものです。
『御遷化略記』
※佛立第二世講有 日聞上人が佛立開導日扇聖人の御遷化前後のご様子をお記しになられたもの。
「明治二十三年五月上浣、吾親教師御頭上に「クサ」の如きもの発し、夫が為同九日より休講仰せ出さる。かつて神戸教実組親会場建設相成り、同月中旬開場式の為御下神相成の処、此の病発の為御延引に相成り候。日を追ふて平快ならせ下ひ、六月二日御講始めにとて御下神に相成し処、翌三日より又御気六ケ敷成られたれども、三日には親会場開場式、四日には神戸にて十会の御講御勤めに相成り、五日御帰京の節御養生の為、大坂奉新造宅へ御立寄に相成、同七日午後一番列車にて御帰館に相成候。
爾して翌八日京の御講に御出席相成候得共、矢張御気六ケ敷して九日より又御休講に相成、七月一日より又御出席に相成候処 同じく三日の御講の御気色 如何にも御六ケ敷あらせらる。此の日の終の御講は河原町四条上る東北組 岡本嘉助子宅なり。同席にて八尾の君 現喜に對して云く、今朝より尊師の御容体 大いに変はらせ下へり、一夜の御看病をもせんと思はば今宵より来られよと、却て説く現喜の心中 今度尊師の御容体常ならざる如く思へり。
故に五日九時より日々師館へ拝候し、御容体を伺へり。日々御衰弱あるが如く覚えて何卒将来に遺憾無之ため御病気中の給仕致度御願ひ被下度と申居候より、三日に八尾君より彼の事を聞きしなり。
夫れより三日より十日迄師の傍に在りて給仕し奉れり。夫れより寺へ帰りては又師館へ伺候せり。爾るに十五日は例月の寺の御修行日なれば御出席有べき旨仰せ出さる。此の日は親会場に於て御法門有之、其の節の御容体ただならぬ御衰弱なれば悲しさの余りよめる
「何故にやつれ給ひしすがたぞと 思へばまづぞ涙こぼるる」現喜
かくて講終らせ給ひて当月四日の御講(是は御母堂の御命日なり)のび居たれば明十六日麩屋町の宅に於て勤むべし、午後一時例によりて参詣致すべくとて其の日御館へ帰へせ下ふ。翌日時間に講下来集それとも又御気六ケ敷して、交つて当日をすませたり。翌十七日は御下阪とぞ仰せ出されたる御心のうち、いかがありしやらん。
現喜、弁了両人は宵のつかれにて、たるともなくてふしたるを、「もはや時間なるぞ、起きよ」と尊師自らおこさせ給ふ。下坂の用意そこくするうち、信衛連役中学徒の面々御送別の為にあつまるもの数十人、尊師御車に召さるれぬ。
かねて大阪秦子より初出しといへる大屋形船を以て迎へ奉る。ここにて送別の人に別れて御舟のトモツナをとけり。舟中は八尾、品尾の両君、現喜、弁了御供し奉り、御迎の為大阪講中木村直二郎と師弟五名なり。舟はやうく下り、やがて淀の大橋こえて八幡山崎のみゆるころ、尊師いとど心よげに、をちこち、うち眺め給ひ、京にある信者たちは此の気色もしらず吾下阪を止めしはと笑はせ給へり。又流るる水を見てのたまはく、「昨日の水に非ずして流は絶へず、随縁不変(反)一念寂照。生々世々の菩薩行は又楽しひ哉」とて、すこしの間横にならせ給ひしが、やがて牧方うち過ぐる頃は十二時前にてありければ、師仰せに、すこしあつさを覚えたれば此の辺にて舟を止め、茶屋へあがり休息して又風の涼しくなりて大阪へ行かんとありしかば、船頭へ申付け守口の傍の或る茶屋へあがりぬ。
座敷の床へ八尾君所持の御本尊をかけ奉り、尊師其前に臥し給ふ。種々御物語もありて四時過ぎより、よくも臥し給へりと思ひつつ、八尾君現喜弁了品尾子もかつ御傍にあり。次にありし船頭の急ぐまま現喜八尾君に曰き、御起し奉らばやと申せば、すこし御容子の変らせ給ふを見る。今迄おそば離れず何の事も無かりしを如何といふ間もあらせず御いき絶えさせ給へり。御供のもの、歎き止まず大方ならず。此時現喜心を取り直し茶やの主に事をあかさず、御病気の体にいひなして、御尊骸をみ舟に移しまひらせ、木村直二郎をば車をとばせて秦氏へ事の由を知らしめ、其の日の暮るる頃、舟大阪秦氏の傍の岸に着きぬ。さて講中の向ひに伴れて秦子の宅へ御尊骸を御供し奉。
これより先、伏水に於て御見送り奉りそれより蒸気船に乗りて山本、榎本、斎木の三人下阪して秦宅に着せり。皆悲泣転々更なり。秦新造清高子は意外の変事に、忠節を尽されし。現喜感ずるに堪へざりき。
宝棺は大阪大歓組の信者川上馬太郎、夜を侵して御臥棺を造り奉る。秦弁?は又白の絹を以て白衣を縫ひ、やがて御入棺の式を調べ、これを収め奉りぬ。それより十八日に至りて大津多羅尾子、御牧伝之助、安田清川等も来りぬ。
さて午後になりて皆々宝棺を安護し奉り、大阪梅田停車場へ来りぬ。大阪玉江組並に大歓組の人々も皆同場迄見送り奉りぬ。さて汽車に乗らんとせしに、鐵道の規則として死体は客車へ乗せしめず、別室に入るるとなり、此時に当りて現喜の愁傷やる方なし。それとは今迄御傍離れずありてここに至りて、御尊骸をひとり別の室に入れ奉る事のなるべきやと思へば涙止まらずあるを、心なき驛夫もあはれとや思ひけん、暫し待たせ給へとて驛長へ事の由を告げたりけん。やがて来て曰く一人のみは側に付添て苦しからずとなん侍れば此時のうれしさ、何にちとへん方もなく、やがて尊骸を別室に入れ奉りて傍に尊師の常にみ車に用ゐ下ひし「ケツトウ」をしきて居りけるを、最前より彼方にありて見居たりし川上馬太郎、さめぐと泣きて両手を合せ、私も御供致したけれども、一人の母今六ケ数病気のよし申し来れるは、不仕合にも御供仕ることを得ずと又さめぐと泣けりければ、現喜も共に袖をぞしぼりける。
汽身は出でぬ。吹田、茨木打過ぐるにつけて昨日は舟にての御供せしを思ひきや、今日の御帰京には御尊骸に侍し奉らんとは、我さへ夢の如くに思ひなされて、うつつとは得こそ思はぬ、まして昨日伏見迄見送り参らせ無事に帰らせ給へと祈りつつ、御別れ奉りし三人の、この事を見ば如何なげかんなど思ひ続けつつ、やうくするうち汽車は七条停車に着きぬ。御迎への人々と共に衣の袖をしぼりつつ、六時前に麩屋町御館へ帰り、御本尊のみ前に宝棺をすゑ奉り、其の夜皆々徹夜して師恩報謝の口唱怠らざりき。(日聞上人御筆)」
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