この写真は、前回載せたものと同じ日に撮られたもので、ワールドカップに出場した時の写真。ホームストレートに出る最終コーナーを曲がっている時の写真だと思う(いや~、格好良いなぁ~、フフフ)。
私の学生時代は、このスポーツばかりしていた。しかも、このスポーツではお金がかかるからアルバイトに精を出さなければならず、学校にもろくに行かないという生活だった。だから大学を留年した。しかも、私は悪知恵ばかり働いていたから、苦し紛れに誰彼と無く代返(教室で出席を取る時、欠席した学生に代わって返事をすること)をお願いしていた有様。最低です。その被害に遭われた方々には、本当に申し訳ないと思う。
プロになってからは、自分のマシン(エンジン)もウェットスーツも、レース会場への渡航費や滞在費もスポンサーが提供してくれるようになったので、とても楽になった。決してメジャーなスポーツではなかったから、メディアに出てお金が入るということは希だったが、それでも楽にはなった。しかし、それまでの私はどうしようもなかった。
プロになる以前、どうしようもない時のこと。私を見守って、可愛がってくれた人がいた。その頃は葉山の長者ヶ崎近くの海で練習をするようになっていたのだが、その海岸でこのスポーツを楽しんでおられるたくさんの年上の先輩たちに出会った。特に、「秀さん」は私たちにとって特別な存在で、学生である私たちを可愛がるというか育てるというか、まるで芸術家をサポートするパトロンのように支援してくれていた。冬の海で練習している時などはガソリンを買って与えてくれる、お昼ごはんや練習が終わった後の夕食にも連れて行ってくれた。若いのは何人もいたから、それこそたいへんな金額だったと思う。
それだけではない。夏の間、秀さんは私たちの海岸で「シエスタ」という海の家を開いていた(「開いていた」というよりも、「開いてくれた」かもしれない)のだが、そこで私たちを働かせてくれた。これは、一石二鳥というもので、インストラクターをしながらアルバイトとしてお金がもらえるし、夕方以降は練習もできるのだから何より有難かった。ガソリンは買ってもらえるし、食事は食べさせてくれるし、練習も出来て、お金ももらえるなんて、信じられないくらいだった。さらに、夏の間は働いている私たちのために、裕次郎灯台の目の前、森戸の海岸沿いに家まで借りてくれていた。
そんな秀さん。私が大学の卒業と同時にスポーツを辞め、本山に行く際にもお寺まで来てくださった。アホな私の姿をたくさん見てきた秀さんだから、どんなものになるのやらと思っていたはず。私の長く伸びた髪の毛を切ってくれた秀さん。そんなお付き合いがあった。
しかし、ご恩を忘れていたわけではないのだが、しばらくの間は連絡をすることも、していただくこともなく時が経ってしまった。ごくごく希に連絡があっても、電話で話をする程度。そして、あの当時からすれば15年以上も経った久しぶりの電話は、『秀さんが倒れた』というものだった。今から2年前だったと思う。病院に駆けつけた。秀さんへの恩返しをしたいと思っていたのに、それもしないで時間が過ぎてしまい、久しぶりの再会が病院の中とは。やはり私は恩知らずだった。
その時から、もう一度ご連絡をさせていただいたり、連絡を下さるようになった。病気のことで妙深寺の瓜生さんがアドバイスやサポートをしてくれたこともあり、その秀さんが何度かお寺にお参詣してくださるようにもなった。そして、秀さんはお寺に来てくださる度に、丁寧に私にご挨拶をくださったり、私の話を聞いてくださるのだった。あれだけ、若い頃の、私のヤンチャさを知っているのに。私も、秀さんのお話をお聞きしながら、ご信心のお話、ご自宅で手を合わせる場所、ご回向について、お墓についてなど、聞かれるままにお話をさせていただいた。
そして、一昨日。秀さんがご夫婦でお寺に来られた。前日に「お願いがある」と電話があったので、何かと思っていたのだが、冒頭に秀さんから「させてもらいます」と、丁寧にハンコの押された御本尊拝受願いをテーブルの上に出された。御本尊を奉安し、ご信心をされるということだった。私は、ただただ、ただただ有難く、「これで、ご恩返しが出来る」と思った。
次の日の朝、秀さんの御本尊拝受願いを言上をさせていただき、はじめて御塔婆を立て、ご回向をさせていただいた。来週の月曜日に御本尊奉安のご奉公をさせていただく。私は、言葉を失っている。そのくらい、有難いのだ。涙が出る。青春時代の、最もお世話になった方の一人、秀さんがご信心をされるとは。本当に有難くて、有難くて、今日は新幹線の中で思い出して涙が出た。
一生懸命にご奉公させていただきます。
ありがとうございます。
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