私が書いている『サイン』とは、日々に実感できるもので、ずっと教えられてきた「それが御利益ですよ」「お計らいね」ということを分かりやすくして使っているに過ぎない。
開導聖人の御教歌には、
「風吹ば松も物いふ声すなり 祈らば験(しるし) などなかるらん」
とあり、御題目口唱が実際に何らかの「験(しるし)」として現れてくることを教えてくださっている。つまり、私が使う『サイン』とは『験(しるし)』との意である。
『一念三千』という法華経の教理は、凡慮では完全に理解することが出来ない。「出来ない」というのはお祖師さまが、
「此一念三千も我等一分の慧解もなし」
と仰せであるから、私たちの智慧を駆使しても何ら得るところはない。ただ、その教えていただくところが、「一念」という刹那(一瞬)の中に全宇宙・森羅万象とつながり、ありとあらゆる生命、生命以外であっても、つながる、つながっている、それを感じ、感じられ、働きかけ、働きが返ってくるというブッダの「覚り」、究極の成仏の「理」。
これを理屈で分かっても分かれないというのが、「我等一分の慧解もなし」で「私たちの智慧や理解が及ばない」「ただ、感じることは出来る」という。
これは、私たちにとってはとても大切なことで、仏道修行の果てに見える「ブッダとなった状態(成仏)」やプロセス「一念三千」という「教理」は、そのままだったら私たちにとって画に描いた餅のような「理論」のままで終わってしまう。たしかに、「ブッダとなった状態(成仏)」や「プロセス」は分かった、でも僕たちがどうやって?ということの答えがなかった。だから、その「ブッダとなった状態」に至るためには、私たちの才能(果報や罪障のレベル)だったらブッダや聖者と同じように何十年やっても到達できないし、少しも感得も出来ない。
しかし、その果てしない「宇宙観」「人生観」は御題目をお唱えして、その「一念三千」の「宝珠」である御題目のご信心を得たら、私のような「凡夫」でも「一念」が「三千世界に及ぶ」ということを実感できるようになる。その難しいプロセスを経ずとも、御題目のご信心によってブッダと同じ境涯に至れるのだ。
お祖師さまが観心本尊抄の中で、
「石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値ふて出生すれば之を信ず。人界所具の佛界は水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖ども、龍火は水より出で、龍水は火より生ず、心得ざれども現証あれば之を用ひよ」
と御妙判されているのは、「現証があったら信じられるであろう」と。開導聖人が「生信互具」と御指南くだされている部分だ。
難しくなってしまった。つまり、実際の行動に表していかなければ何の意味もなく、『サイン』もない。ただ、実際にやってみると、驚くほど『一念三千』を理解、感得できる、と。Something Greatが、私たちの背を押してくださっていること、Something Greatが私たちを見守ってくださっていること、私たちの無始已来(始まりも分からないくらい昔から)のカルマを良く転じてくださっているということを。罪障を消滅していただき、業が徐々に変わっていっていることを。宇宙・森羅万象と結びついていて、うまくいかないこともあるけれど、『サイン』を感じながら生きていけることを。
ジョン・レノンの曲に、素晴らしい歌詞の印象的ものがある。調べてみると、彼はこの曲を製作する際、"words are flowing out like endless rain into a paper cup" という一節がまず浮かんだという。そして、しばらく考えた末に一気に書き上げた。
当時、ジョンは1968年当時、マハリシというヒンドゥーのグルを敬愛しており、そこでアジア的な思想を学び、傾倒していった。曲の中にはヒンドゥーのマントラがあり、「Jai Guru Deva Om…『我らが導師、神に感謝を』」と繰り返される。インド出身のラジ女史に聞くと、オウム事件の時に話題となった「グル」という言葉は「導師」という意味で、インド人であれば誰でも一人の「導師(先生)」を持っている。持っていなかったら逆に変だという。ラジ女史にとっては福岡御導師が「グル」。オウム事件の影響があって、日本人にはなかなか理解しにくいと思うが。
ジョンは、「本当に良い歌はメロディーがなくても歌詞だけでその価値を見出せる」「それに該当する曲こそがAcross The Universe(アクロス・ザ・ユニバース)だ」と言っていたそうだ。
私は、私たちが日々感じる『サイン』や御題目によって感得させていただく心境を良く言い表してくれている曲だと勝手に思っている。残念ながらジョンは法華経本門の教えに出会っていなかったので、そのインドの生み出した無上の聖者、ブッダの究極の教えに接することが出来なかった。しかし、その「宇宙観」の片鱗、一端を、彼の歌から感じることが出来るのではないか。
もちろん、歌詞の中にあるマントラでは宇宙を感じることはできない(事実、最終的にはマハリシにすら信を寄せられなかった)が、その部分を私はUniversal Languageである「Namu Myoho Renge Kyo,,,(ナムミョウホウレンゲキョウ)」と勝手に変えて歌う、聴いている。
その歌詞は、
Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slither while they pass, they slip away across the universe
Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind,
Possessing and caressing me.
降りやむことのない雨の中に置かれたコップの中の水のように言葉があふれだしてゆく
それは目の前を通りすぎ 銀河をすりぬけてゆく
ボクの悲しみの心にさざ波をたてて
ボクにとりつきボクを包みこむ
Namu Myoho Renge Kyo,,,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.
誰もぼくの世界を変えることはできない 誰にもぼくの世界は変えられない
Images of broken light which dance before me like a million eyes,
That call me on and on across the universe,
Thoughts meander like a restless wind inside a letter box they
Tumble blindly as they make
their way Across the universe
目の前で踊る百万にも見える目のような粉々に飛び散る光のイメージのダンス
それはボクを呼び宇宙を渡ってゆく
でもそれは郵便箱に吹きこむ落ち着きのない風のように
自分の道を盲目的にさまよい宇宙のかなたへ向かう
Namu Myoho Renge Kyo,,,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.
ぼくの世界を変えることはできない 誰にも変えられない
Sounds of laughter shades of earth are ringing
Through my open views inviting and inciting me
Limitless undying love which shines around me like a million suns,
it calls me on and on Across the universe
Namu Myoho Renge Kyo,,,
地球の影で笑い声が響き渡り
私の眼を開き、耳を駆り立て、私を誘う
限りのない不滅の愛が私の周りで何百万個の太陽のように輝き
宇宙のかなたから私を呼び続ける
Namu Myoho Renge Kyo,,,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.
ぼくの世界を変えることはできない 誰にも変えられない
世界中には、この曲を好きな人がこんなにいるんだなぁと思った。
You Tube大丈夫かな?
4 件のコメント:
ジョンの歌詞で、法華経の一念三千の教えを分かり易く解説頂きありがとうございます。ジョンの歌と御題目は、丁度妙境と魔事境との違いのような感じです。by淳慧
淳慧師に誉めていただいても素直に喜べないなぁ。コワイ。
一念三千は、そのままだとあくまでも迷った人間が仏になれるという究極の「理論」、本質は仏も人間も同じであるということを「教理」で述べているということと、それを「実感」「体現」するためには絶対に御題目が無ければならないことを書きたかったのです。そして、あくまでも分かりやすくするために、ジョン・レノンの世界を紹介しました。だって、その片鱗は誰もが感じていることですし、御題目をお唱えした人であれば、間違いなく感得することだと確信しているからです。
つたない文章にコメントありがとう、淳慧師。あとでつねるから。
私が悪うございました。どうかつねらないでください。by淳慧
コメントを投稿