当たり前のことですが、それよりも、この地から始まったブッダの後半生、霊鷲山の法座に極まる御法門こそ重要で、その実践の中で生きることこそ、永続的に高い覚りの状態にいながら生きることになると信じます。
この聖地で思い返すことは、覚りに至ったブッダが「死」の誘惑を感じたこと。覚りは、この上ないほど気持ちよく、心地よく、穏やかで、晴れやかで、憂いや執着もない、あらゆるものから解き放たれた状態。
「いっそこのままこの身体を離れよう」「涅槃を迎えよう」。ブッダは、そう考えられた。覚りの、この上ない快感を思えば、ある意味で当然のことだと思う。
しかし、そこから、ブッダは戻る。ブッダは、思い止まる。
なぜか。
それは、目の前に広がる世界には問題が溢れていて、数え切れない人々が苦しみ、地図を持たずに彷徨う旅人のように、傷つけ合い、奪い合い、騙し合い、競い合って放浪している。
ブッダは暗闇の中で生きる人間たちに尊い灯火を分け与えるために、戻られた。私たち仏教徒は、このブッダガヤで、覚りを開かれた直後の、ブッダの迷いと決意を、思い返すべきだと思います。
そして、佛立仏教徒は、ブッダの決意の一分を汲んで、菩薩行の実践を、ひたむきに続けるべきでしょう。人を支え、人を助けること、それだけが、仏教徒が覚りを開くためにすべき修行であり、覚りを開いた後に行うべき修行です。
お祖師さまのご出現と、上行所伝の御題目さまがなければ、私たちも分からなかったし、出来なかった。幸い、約束は果たされ、私たちは御題目にお出会いしました。だから、それが出来るのです。
世界中からブッダガヤに集まる仏教徒を見ながら、仏教の多様性を思うと共に、御題目にお出会いすることの尊さて、御題目にお出会いすることの難しさを思いました。
ブッダガヤでは、ここで覚りを開かれたという事実と、ブッダの死の誘惑と克服についてお話しました。
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