善光寺の門前、長野教区の高木さんのお席に於いて、無事盛大に教区御講を奉修させていただきました。
ご宝前がキラキラ輝いて、美しい。思わずうっとり。お花も、お道具も、お盛り物も、細やかなお給仕、ご信心の思いが溢れているのを感じます。どれほどの思いか。思いを込めてくださっているか。
陸前高田に支援を続けておられる珈琲日和さんのお菓子も供えてありました。秀子さん、ありがたいです。
ご宝前に、妙深寺本堂の写真が飾られていました。遠く離れていても、こうした思いを持ってくださっている。あちこちに、篤いご信心が見つけられて、ワクワクしました。和やかで、歓びに溢れた、楽しい御講となりました。ありがとうございます。
高木さんのご挨拶に引き続いて、篠原さんがホッチキスで綴じられた紙を配られました。そして、お話になったのは、僕が今から10年前に書いた妙深寺報に書いた『電池が切れるまで』という文章。
長野県立こども病院の子どもたちのご本を読んで、感じたことを書きました。そうだ、長野だ。いま、僕も気づきました。あの頃、長野でご奉公させていただくとは全く思っていませんでした。でも、考えてみたら、音美さんのお孫さんもこの病院にかかっておられました。そうだ、コピーを見て、思い出しました。
自分が書いた文章ですが、つながらなかった。いま、今日の御講で、あらためて、つながりました。
きっと、この中に書いてあることは、今の私たちのご奉公に、とっても意味がありますね。ずっと、僕の思いも、ご奉公の方向性も、変わっていないから。この文章を書いた後で、吏絵ちゃんに出会ったり、お助行にみんで一つになったりしたのですね。
懐かしいです。今では吏絵ちゃんも元気に、そして美しい女性に成長し、本当にありがたいです。
10年以上前の文章です。読んでみてください。
『電池が切れるまで』
つくづく恥ずかしくなりました。
長野県立こども病院の子供たちが書いた詩集「電池が切れるまで」を読み、涙と同時に恥ずかしさがこみ上げてきました。
大変な悪性の病気に苦しむ子供たちの声。脚色も飾りも無い真実の言葉。院内学級で子供を見守る先生方のお言葉。ご両親のお言葉。想像を絶する苛酷な状況の中で、その言葉の一つ一つが胸に刺さり、頭の中が真っ白になりました。
由貴奈ちゃんは、大変な病気でありながら生きる希望を失わず、人を思いやり、勇気を与え続けました。
「電池が切れるまで」とは、その由貴奈ちゃんが書いた「命」という題名の詩から生まれました。五歳の時から神経芽細胞腫という大変な病気を患い、十一才で短い生涯を閉じた小さな菩薩のような由貴奈ちゃんが、亡くなる四ヶ月前に書いた「命」という詩。
一緒に入院していた友達が亡くなり、テレビから流れるいじめや自殺のニュースを聞いて、生きたくても生きられない友達がいるのに、と命の大切さと精一杯生きることの大切さを教えてくれる詩です。
「命はとても大切だ。人間が生きるための電池みたいだ。でも電池はいつかは切れる。命もいつかはなくなる。電池はすぐにとりかえられるけど、命はそう簡単にはとりかえられない。何年も何年も、月日がたってやっと神様から与えられるものだ。命がないと人間は生きられない。でも、「命なんかいらない」と言って、命をむだにする人がいる。まだたくさんの命がつかえるのに。そんな人を見ると悲しくなる。命は休むことなく働いているのに。だから、私は、命が疲れたと言うまで、せいいっぱい生きよう」
この詩集には、他の多くの子供たちの言葉もよせられています。その言葉は、どれも菩薩の言葉のように尊く感じられます。中学生の藤本君の「病気」という詩。
「この病気は、僕に何を教えてくれたのか。今ならわかる気がする。病気になったばかりの頃は、なぜ、どうして。それしか考えられなかった。自分のしてきたことをふりかえりもしないで。けどこの病気が気づかせてくれた。僕に夢もくれた。絶対僕には病気が必要だった。ありがとう」
大変な病気の中、感謝の言葉を記すという心の尊さ。特に巻末の「親の思い」という詩は、何度も、何度も、繰り返し拝見いたしました。
「五体満足で育っている子どもをもつと子どものいない人をうらやむことがある。切って縫って体にきずをもつ子どもをもつと、元気で普通の子どもをうらやましく思う。一生ハンディの残る子どもをもつと、一時の治療ですむ子どもをうらやましく思う。余命宣告されたり子どもの死んでしまった親は、ハンディが残ってでも生きている子どもをもつ親をうらやましく思う。子どもができない親は、産める親をうらやましく思う。腹のそこから大笑いしているそんな時もよいけれど、私はいつも微笑んでいられる一日一日、瞬間瞬間を大切にしたい」
ここに、素晴らしい無名の詩人、菩薩のような方々がおられ、苦悩する人々に勇気を与え、病の人に希望を与え、愚かな私たちに命の尊さを気づかせてくれています。私は、恥ずかしくなりました。
私たちは、いつも御仏の教えを説かせていただいております。御仏の教えは人間の全ての業、生老病死を説き示し、無常の運命を背負う人間が為すべき生き方を示されております。その根本根底に御題目があり、心の闇を照らし、人生という夜道を照らして下さるのです。苦しい時にお縋りし、人のせいにすることなく、運命をも恨まず、御仏の大慈大悲を信じて菩薩の心を忘れずに生きることに撤する。第一の良薬、御題目を身心に頂くことで御利益を頂戴するのです。この御仏の教えは、普遍であり、天地が逆さまになっても変わることはないと確信します。
しかし、その尊い御仏の教えの実践者は誰なのだ、ということを考えると恥ずかしくなるのです。私たちは、この子供たちのように伝えられているだろうか。私こそ御法門を口先だけ、理だけで説いているのではないだろうか。この子供たちより高位な人間などいるだろうか。針や管を刺される我が子を見守るご両親ほどの苦行者がいるだろうか。その両者を見守り、指導する医師の方々は、どれだけ強靱な慈悲を抱いているというのだろう、と自分自身の至らなさを実感するのです。
長野県のこども病院に集う方々だけではなく、世界中には多くの菩薩のような方々がおられます。その方々は苦しみの中で体験的に、命の尊さや勇気、思いやりや慈悲を身につけてこられたのでしょう。素晴らしい生き方を実践している方は実に多くおられます。
だからこそ、上行所伝の御題目をいただく私たち、御仏の清き教えの流れを受け継ぐ私たちは、「本音」で菩薩の生き方ができるように、同悲同苦のご奉公を心掛け、日夜に菩薩の誓いを思い返して、修行に努めたいのです。
「本音」とは、「信じる心」です。住職も教務も、幹部や役中も、「一信者」であることを忘れてはなりません。それは、「信者」の言葉でなければ人の心に届かないからです。「心」を忘れて、役職役目で言う、慣れでやる、というだけでは「建て前」となり、心には届きません。「住職だから言っている」、「教務だから言う」、「立場だからします、言います」では、余りに恥ずかしい。本音と建て前が行ったり来たりしている間は、本当の思いやりや慈しみをもって生きることは出来ません。結局、偽りの多い生き方となるはずです。
菩薩とは、一人の信者であり、信者とは一人の人間です。また、人間は、真実の御法を信じるべきであり、信者は誰もが菩薩であるべきなのです。驕ることも、達観することも許されません。誰もが数奇な運命を背負った人間です。そして、その運命を果報や罪障と自覚する信者となり、人を助ける菩薩を目指すべきなのです。
私自身も、妻の癌で自分の運命に翻弄される一人の人間であり、その中で御法さまに救われている一人の信者であり、そうした経験を通じて、誰かの心の支えになれればと、菩薩の誓いをさせていただく一人なのです。
電池のある限り。命が疲れたと言うまで精一杯。今日の我が身を感謝して、人間として信者として、菩薩として生きる。由貴奈ちゃんに教えていただきました。
2013年10月26日土曜日
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