2016年5月10日火曜日

尼僧の告白

いま、ミュージアムで展示している「テーラ・ガーター」と「テーリー・ガーター」。

 

原始仏教といわれるものの中の原始仏教の痕跡。

 

いわゆる『仏弟子の告白』と『尼僧の告白』です。

 

現在、「スリランカと仏教展」を開催させていただいておりますが、悪口ではなくて、現在のスリランカにある上座部仏教(テーラワーダ)が権威主義となってしまったことは分かります。

 

彼らは、仏陀の教えや伝承から外している『テーリーガーター(尼僧の告白)』は、最も「仏教的」で、その後の上座部がいかに閉鎖的になり、権威主義に陥ってしまったか、分かります。

 

そして、なぜ大乗仏教運動が生まれたか、そして大乗仏教すら本意を逸脱して(過剰に上座部の長老たちを批判して)、一乗の妙法蓮華経に至ったかが分かります。

 

法華経は、最も原始仏教、仏陀の肉声、仏陀の教え、仏陀の思想を伝えている、ということ。

 

(これは別途書きますが、いかに「思想的」に法華経の優位性を認めても、「信心」を見出せなければ法華経の功徳も壊滅してしまいます。信心で法華経をいただくためには、本化上行菩薩の出現と、その視点から法華経を見なければなりません。)

 

吉川淳省師の弟、リカルドの奥さんが得度を希望し、サンパウロの日教寺に入寺して修行しています。

 

そういう時代であり、そういう佛立宗だと思っています。

 

本当に、当時の御弟子方、ご信者の方々が、この教えに出会って、圧倒的なインパクトを受けて、感激しているのが分かります。

 

特に、『尼僧の告白』は、想像を絶するほどの、感動の告白。

 

身動きが取れないほど苦しめられてきたものから解き放たれ、壮絶な重荷をやっと下ろすことができたという感動でしょうか。

 

これから、女性のお教務さんをたくさんお作りして、いつか女性の講有にお出ましいただきたいです。

 

そう思えるのが、本門佛立宗だと思います。

 

以下、京都佛立ミュージアムで展示したパネルの原稿です(展示にはパーリ語やサンスクリット語の教典を展示し、原稿の横にはサンスクリット語を配置しました)。

 

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テーラー・ガーターとテーリー・ガーター

 

〈 ブッダに救われた男女の告白 〉

 原始仏典を紐解くと、ブッダは決して権威主義的でなかったことが分かります。同時に、ブッダと弟子・信徒の距離は極めて近く、男女の区別も差別もなかったことが分かってきました。

 原始仏典では、ブッダは自分のことを「人間」であると言い、「善き友人(善知識)である私」と語り、弟子たちもブッダのことを「尊き師」「ブッダ」と呼びつつ、「かのゴータマ」「ゴータマさん」「君よ」「かれ」などとも呼んでいます。

 スリランカにも伝わるパーリ語の原始仏典『テーラ・ガーター』『テーリー・ガーター』(『仏弟子の告白』『尼僧の告白』中村元/岩波文庫)には、男女の区別も差別もないブッダの見解が生き生きと描写されているのです。特に、尼僧の告白を読むと、仏陀の慈悲深い教導を知ることが出来ますし、女性たちの生き生きとした体験や堅固な信仰心が伝わってきます。

 以下、そんな原始仏典の一部をご紹介します。

 

 therîgâtâ(テーリー・ガーター) 【 八つの詩句の集成 】 >

196.〔シースーパチャーラー尼いわく、――〕戒行を具現している尼僧は、感官をよく慎しみ、飽きることの無い、味わいのある静けさの境地に到達するであろう。

197.〔悪魔いわく、――〕三十三神(忉利天)と、ヤーマ天と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽天の神々と、(化他)自在天の神々は、――かつて以前にあなたが住んだことのあるこれらのところに(生まれようと願って)心を専念なさい。

198.〔シースーパチャーラー尼いわく、――〕三十三天とヤーマ天とトゥシタ天と、化楽天なる神々と、(他化)自在天なる神々は、

199.繰り返し、一つの生存から他の生存へと、(生まれかわりつつ)己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超えることができない。

200.全世界は(欲望の火が)燃え立っている。全世界は焼かれている。全世界は焦がされている。全世界は揺らいでいる。

201.動揺することなく、比類なく、凡夫の実践しなかった真理の教えを、ブッダは、わたしに説き示されました。わたしの心は、それを楽しんでいるのです。

202.かれのことばを聞いて、わたしはその教えを楽しんで、日を送っていました。三種の明知に到達しました。ブッダの教え(の実行)は、なしとげられました。

203.快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、(無明の)闇黒の塊は、破り砕かれました。悪魔よ。このように知れ、――そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ。

 シースーパチャーラー尼

 八つの詩句の集成おわる。

 

 therîgâtâ(テーリーガーター)【 十六の詩句の集成 】 >

236.〔プンニカー尼いわく、――〕「水汲女として、わたしは寒いときにも、つねに水の中に入りました。貴婦人たちから罰せられるのを恐れおののいて、またことばで怒りを発せられるのを恐れ悩まされて。

237.バラモンよ。あなたは、だれを恐れていつも水の中に入ったのですか?あなたは、手足が慄えながら、ひどい寒さを感じています。」

238.〔水浴をなすバラモンいわく、――〕「プンニカーさんよ。しかし、そなたは、わたしが善い行ないを為し、悪い行ないをとどめていることを知りながら、しかも(そのようなことを)質問している。

239.老いた人でも、若い人でも、およそ悪い行ないをなすならば、かれは水浴によって悪業から脱れることができる。」

240.〔プンニカー尼いわく、――〕「そもそも誰が、無知でありながら無知なる者に<水浴することによって悪業から脱れることができる>ということを説いたのですか?

241.さて、(もしもそうであるならば)蛙も、亀も、竜も、鰐も、そのほかの水中にもぐるものどもも、すべて天界におもむく(天に生れる)ことになりましょう。

242.また、(もしもそうであるならば)屠羊者も、屠豚者も、漁夫も、猟鹿者も、盗賊も、死刑執行人も、そのほか悪業をなす人々は、すべて、水浴によって悪業から脱れることになりましょう。

243.もしもこれらの河川の流れが、そなたが以前になした悪業を運び去ってしまうのであるならば、これらの流れは、善業(功徳)をも運び去ってしまうでしょう。それによって、そなたは(善悪両者の)外にある者となってしまうでしょう。

244.バラモンよ。そなたがいつも恐れている水中に入って行ったところのそのことをなさるな。バラモンよ。寒気がそなたの皮膚を害なわないようになさい。」

245.〔バラモンいわく、――〕「邪まな道を踏み行くわたしを、あなたは〔正しい〕尊い道に連れて行ってくださいました。尼さまよ。わたしは、この水浴衣をあなたに差し上げます。」

246.〔プンニカー尼いわく、――〕「〔水浴のためのこの〕衣はあなたのものにしておいてください。わたしは、衣が欲しくはありません。――もしも、あなたが苦しみを恐れ、苦しみを厭うならば、

247.あらわにも、あるいは秘密にでも、悪い行ないをなさいますな。もしも、あなたがいつか悪い行ないをしようとするならば、あるいは現にするならば、

248.あなたは、空中に跳び上って逃げても、苦しみから離脱することはできません。――もしも、あなたが苦しみを恐れ、もしもあなたが苦しみを厭うとしても。

249.そのようにみごとなブッダと、理法と、修行者のつどいとに帰依なさい。もろもろの戒しめをたもちなさい。そうすれば、あなたのためになるでしょう。」

250.〔バラモンいわく、――〕「わたしは、そのようにみごとなブッダと、真理の教えと、修行者のつどいとに帰依します。もろもろの戒しめをたもちます。そうすれば、わたしのためになるでしょう。

251.以前には、わたしは梵天の親族であったが、いまでは、わたしは(真の)バラモンである。わたしは三つの明知をそなえ、(真の)沐浴者であり、学識ゆたかな(真の)ヴェーダ学者である。」

プンニカー尼

 

 therîgâtâ(テーリーガーター)【 十二の詩句の集成 】 >

224.わたしたち、母と娘の両人は、同一の夫を共にしていました。そのわたしに、未だかつてない、身の毛もよだつ、ぞっとする思いが起りました。――

225.厭わしいかな! 愛欲は不浄で、悪臭を放ち、苦難が多い。――われら、母と娘とが同じ夫を共にするとは!

226.もろもろの欲望には患いのあることを見て、また世を捨てて出離することがしっかりとした安穏であると見て、わたしは王舎城において出家して、家に在る生活から出て、家無き生活に入りました。

227.わたしは、前世のありさまを知り、すぐれた眼(天眼)を浄めました。他人の心の中を見通す知慧が起り、聴力が浄められました。

228.わたしは神通力を現に体得し、わたしは煩悩の消滅に達しました。わたしは、六つの神通力を現に体得しました。ブッダの教え(の実行)がなしとげられました。

229.わたしは、神通力によって四頭立ての馬車をつくり出し、(栄光あるこの世の王・ブッダの)両足に(頭をつけて)敬礼して、(一方に立ちました。)

230.〔悪魔は言った、――〕「頂きに花が咲き満ちている樹に近づいて、あなたは独りで、樹の根もとに立っておられる。そうして、あなたには、伴侶がだれもいない。若い女よ。そなたは、悪者どもを恐れないのか?」

231.〔ウッパラヴァンナー尼いわく、――〕「たといこのような悪者が百・千人(十万人)も集まって来ようとも、わたしは毛筋一本も動かしますまい。震えもしません。悪魔よ。そなたは、ひとりで、わたしに何をしようとするのですか?

232.このわたしは、姿をかくすこともできます。あるいは、そなたの腹のなかに入ることもできます。また、わたしは(そなたの)眉と眉との間に立つこともできます。そなたは、わたしが立っているのを、見ることはできないでしょう。

233.けだし、わたしは心を克服しました。超自然力をよく修めました。わたしは六つの神通を現に体得しました。ブッダの教え(の実行)をなしとげました。

234.もろもろの欲望は、刀と串に譬えられる。それらは、(個人存在の五つの)構成要素の集まりの断頭台である。そなたが<欲楽>と呼んでいるものは、いまや、わたしにとっては<楽しませないもの>である。

235.快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、(無明の)闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、――そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ。」

ウッパラヴァンナー尼 十二の詩句の集成おわる。

 

 Sutta Nipāta(スッタニパータ) >

136.生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」

Sutta Nipāta 第一「蛇の章」七「賤しい人」)

 Sutta Nipāta(スッタニパータ) >

607.これらの生類は生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類はそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

608.髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

610.(中略)についても、他の生類の間にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

611.身体を有する(異なる)生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別(差別)は存在しない。言葉によって人間の間で差別が存在すると説かれるのみである。

Sutta Nipāta 第三「大いなる章」九「ヴァーセッタ」)

 

650.生まれによって「バラモン」となるのではない。生まれによって「バラモンならざる者」となるのでもない。行為によって「バラモン」なのである。

651.行為によって「バラモンならざる者」なのである。行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって上人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。

652.行為によって盗賊ともなり、武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

653.賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654.世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く軍が轄に結ばれているように。

Sutta Nipāta 第三「大いなる章」九「ヴァーセッタ」)

 

 SAMYUTTA NIKAYA(サンユッタニカーヤ) >

「(自らを)慚じることは、その車の制御装置であり、念いを正していることはその囲幕である。私は法(真理の教え)を御者と(呼び)、正しく見ること(正見)を先導者と呼ぶ。女性であれ、男性であれ、その人の乗り物がこのようであれば、その人は実にこの乗り物によってまさにニルヴァーナ(涅槃)のそばにいる」SAMYUTTA NIKAYA Ⅰ.5.6  第Ⅰ篇「神々についての集成」第五章「燃えている」第六節「天女」

 

「生まれを尋ねてはいけない。行いを尋ねよ。火は実に木片から生じる。卑しい家柄(の出)であっても、堅固で、慚愧の念で自らを戒めている賢者は、よき生まれの(すなわち高貴の)人(ajaniyo)となるのである。」SAMYUTTA NIKAYA VII.1.9 第VII篇「バラモンに関する集成」第一章「敬わるべき人」第九節「スンダリカ」

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ご住職は12才以下

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