昨夜、青少年の一座から戻ってきたメンバーを本堂で迎えることが出来ました。
長男も。
彼は、この夏、「自分の心を強くしたい」と言い出し、「そのためには修行しかないと思います。どうかお寺に入れてください。」と言い、家を出て教務室に行ってしまいました。
彼なりに、自分のアイデンティティに悩んでいるのだと思います。
息子ということ。
ハーフであるということ。
こちらも、伝えたいことがたくさんあるのだけど、今は、簡単には、伝えられない。
勝手に頭を丸めて、毎朝5時過ぎに起きて、若い御講師方に教えていただきながら、彼は過ごしていました。
そして、岡山で開催された、青少年の一座へ。
広島から、突然電話がかかってきました。
「どうした?」
「いま、資料館を出たところ。」
「どうした?」
「ここで、ここで、たくさんの人が、原子力爆弾で死んだんだよ(涙)。」
「うん。」
「みんな、みんな、一瞬で、死んでしまったんだよ(涙)。」
「そうだ。」
「なんで、こんなバカなことをしてしまうの?なんでこんな恐ろしいことをしてしまうの?」
「うん。本当だな。なぜか。なんでか。とことん、考えような。」
そんな会話をしました。
神奈川布教区から参加した同世代のみんなと夜を過ごし、翌日はご講有ご唱導の一座へ。
13才。
長男にとって、今年の夏は、本当に濃密な夏だったと思います。
そして、同じくらいの年齢の少年と少女が、命を奪われた夏。
大阪の高槻市で起きた遺棄事件は、この夏の痛ましい事件の中で最たるものと思います。
マクロとミクロで、戦争と平和を見なければ、見たこと、考えたことにはなりません。
国と国との問題は、すなわち人と人の問題に共通するということ。
一面、優しい心も持っている人間が、凶悪な犯罪を行うということ。
すべては、マトリックスに、裏と表に、これとあれに、つながっています。
まだ幼い子どもを傷つける凶悪な犯罪。
鬼のような、悪魔のような、所業です。
私たちは眉をひそめ、犯罪者の断罪を望む。
それは、そのとおりです。
しかし、性的な交錯、偏向も、表面ではなかなか分かりません。
スイッチ1つで、鬼になる脆さを、多くの人が抱えて生きていると思った方が正しいと思います。
何十ヶ所も、傷つけられていたという少女。
1ヶ所だって、猛烈な痛さのはずです。
それを繰り返されている、その時、その空間は、どれほどの地獄、どれほど狂気の空間でしょう。
こうした、おぞましい事件を見聞きすると、深く感じて、深く考えてしまって、苦しくなります。
無機質な、ニュースで流れる言葉ではなく、傷の、一つ一つの痛さ、熱さ、恐怖、空間、叫び声や、狂気に支配された人間の満たされた心まで見えるようで、苦しくなります。
宗教者としてニュースを見るということは、そういうことだと思うのですが、あまりにも酷い事件が続きました。
しかし、敢えて、ここに、学ばなければならないことがあると思うのです。
その目を覆いたくなるような、狂人が作り出す狂気の空間が、戦争というものだから。
犯罪を冒す本人は、いたって平然と、いたって普通に、それが仕方のないことであるかのように、たくさんの真っ当な理由が存在していたかのように、それを行い、それを正当化するものだから。
人間というモノの本質を見据えなければ、戦争と平和は語れない。
長男が、戦争という蛮行や狂気に触れた時、自分の中、人間の中に潜む、同じことを仕出かす性質にも、少し気づけたらいい。
禁欲的になれとか、倫理的に生きなければならないとか、そういうことじゃなく。
人間とはそういうもの。
だから、深い愛が必要だし、それ以上に信仰が必要だということ。
み仏は、菩薩にもなれば鬼にもなり得る人間というものに、魂の手綱として、教えを説かれたのだから。
地獄の鬼にもなれば、餓鬼にも、畜生にも、修羅にもなるけれど、菩薩にもなれる人間に。
こんなことを思いながら、それでも、この世界は、もっと、もっと、もっと良くなると、信じて、信じて、生きることが、一番の幸せであり、一番すてきな生き方なのだと思います。
そう思う夏でした。
朝のお給仕に出る時、本当に涼しくなったことを感じました。
いま、長野に向かっています。
明日は大阪へ伺います。