2015年8月24日月曜日

13才の夏

昨夜、青少年の一座から戻ってきたメンバーを本堂で迎えることが出来ました。

長男も。

彼は、この夏、「自分の心を強くしたい」と言い出し、「そのためには修行しかないと思います。どうかお寺に入れてください。」と言い、家を出て教務室に行ってしまいました。

彼なりに、自分のアイデンティティに悩んでいるのだと思います。

息子ということ。

ハーフであるということ。

こちらも、伝えたいことがたくさんあるのだけど、今は、簡単には、伝えられない。

勝手に頭を丸めて、毎朝5時過ぎに起きて、若い御講師方に教えていただきながら、彼は過ごしていました。

そして、岡山で開催された、青少年の一座へ。

広島から、突然電話がかかってきました。

「どうした?」

「いま、資料館を出たところ。」

「どうした?」

「ここで、ここで、たくさんの人が、原子力爆弾で死んだんだよ(涙)。」

「うん。」

「みんな、みんな、一瞬で、死んでしまったんだよ(涙)。」

「そうだ。」

「なんで、こんなバカなことをしてしまうの?なんでこんな恐ろしいことをしてしまうの?」

「うん。本当だな。なぜか。なんでか。とことん、考えような。」

そんな会話をしました。

神奈川布教区から参加した同世代のみんなと夜を過ごし、翌日はご講有ご唱導の一座へ。

13才。

長男にとって、今年の夏は、本当に濃密な夏だったと思います。

そして、同じくらいの年齢の少年と少女が、命を奪われた夏。

大阪の高槻市で起きた遺棄事件は、この夏の痛ましい事件の中で最たるものと思います。

マクロとミクロで、戦争と平和を見なければ、見たこと、考えたことにはなりません。

国と国との問題は、すなわち人と人の問題に共通するということ。

一面、優しい心も持っている人間が、凶悪な犯罪を行うということ。

すべては、マトリックスに、裏と表に、これとあれに、つながっています。

まだ幼い子どもを傷つける凶悪な犯罪。

鬼のような、悪魔のような、所業です。

私たちは眉をひそめ、犯罪者の断罪を望む。

それは、そのとおりです。

しかし、性的な交錯、偏向も、表面ではなかなか分かりません。

スイッチ1つで、鬼になる脆さを、多くの人が抱えて生きていると思った方が正しいと思います。

何十ヶ所も、傷つけられていたという少女。

1ヶ所だって、猛烈な痛さのはずです。

それを繰り返されている、その時、その空間は、どれほどの地獄、どれほど狂気の空間でしょう。

こうした、おぞましい事件を見聞きすると、深く感じて、深く考えてしまって、苦しくなります。

無機質な、ニュースで流れる言葉ではなく、傷の、一つ一つの痛さ、熱さ、恐怖、空間、叫び声や、狂気に支配された人間の満たされた心まで見えるようで、苦しくなります。

宗教者としてニュースを見るということは、そういうことだと思うのですが、あまりにも酷い事件が続きました。

しかし、敢えて、ここに、学ばなければならないことがあると思うのです。

その目を覆いたくなるような、狂人が作り出す狂気の空間が、戦争というものだから。

犯罪を冒す本人は、いたって平然と、いたって普通に、それが仕方のないことであるかのように、たくさんの真っ当な理由が存在していたかのように、それを行い、それを正当化するものだから。

人間というモノの本質を見据えなければ、戦争と平和は語れない。

長男が、戦争という蛮行や狂気に触れた時、自分の中、人間の中に潜む、同じことを仕出かす性質にも、少し気づけたらいい。

禁欲的になれとか、倫理的に生きなければならないとか、そういうことじゃなく。

人間とはそういうもの。

だから、深い愛が必要だし、それ以上に信仰が必要だということ。

み仏は、菩薩にもなれば鬼にもなり得る人間というものに、魂の手綱として、教えを説かれたのだから。

地獄の鬼にもなれば、餓鬼にも、畜生にも、修羅にもなるけれど、菩薩にもなれる人間に。

こんなことを思いながら、それでも、この世界は、もっと、もっと、もっと良くなると、信じて、信じて、生きることが、一番の幸せであり、一番すてきな生き方なのだと思います。

そう思う夏でした。

朝のお給仕に出る時、本当に涼しくなったことを感じました。

いま、長野に向かっています。

明日は大阪へ伺います。

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