私たちは「人間」を知っているだろうか
「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる。」『人間不平等起源論』岩波文庫・序文冒頭
三百年前の欧州に生きた政治哲学者・ルソーの言葉です。理想的、悲観的と言われる彼の思想に議論の余地があるとしても、彼は巨大な問題に直面している私たちに大きな示唆を与えています。
私たちは、人間を知らないのではないか。人間を知らず、自分自身を知らないからこそ、私たちは巨大な問題の本質にたどり着けないのではないか。逆に考えれば、人間というもの、自己というものを知れば、賛否や甲乙のつけがたい問題に対して、何らかの光を見ることが出来るのではないか。
ルソーは冒頭に挙げた言葉を『人間不平等起源論』の序文に記し、続けて次のような言葉を綴っています。それはあたかも現代社会の様相を予見しているかのような文章です。
「人間社会を平静で公平な眼をもって眺めてみると、まずそれはただ強い者の暴力と弱い者への圧迫だけを示しているように見える。そこで、人の精神は前者の冷酷に対して反抗したり、後者の無自覚を嘆きたくなったりする。そして、人間のあいだでは、知恵よりもしばしば偶然によって生み出され、弱さあるいは強さ、富裕あるいは貧困と呼ばれる、あの外面的な関係ほど安定性のないものはないのだから、人間の建造物(制度)は、一見したところ、くずれやすい砂上の上に築かれているかのように思われる。それらを注意ぶかく点検してはじめて、また、建物を包んでいる埃と砂を払いのけてはじめて、人は建物の立っている盤石の礎を認め、そしてその基底を尊敬すべきことを学ぶのである。」
「身分と財産の極端な不平等、情念と才能との相違、無益な技術、有害な技術、つまらない学問から、理性にも幸福にも特にひとしく反する無数の偏見が生まれてくるであろう。すなわち、結集している人々を分離させて弱めるような一切のもの、外面上は一致しているような様子を社会に与えながら、しかも現実には分離の種を蒔くような一切のもの、さまざまな階級にその権利や利害の対立によって、相互の不信と憎悪とを吹き込み、従ってそれらすべての階級を抑える権力を強めるような一切のものが、首長等によって助長されるのが見られるであろう。この無秩序とこれらの変革のなかからこそ、専制主義が、その醜悪な頭を次第にもたげ、国家のあらゆる部分に善良で健全なものと自分に認められる一切のものを貪りくらい、ついには法律も人民も足下に踏みにじり、国家の廃墟の上に自己を確立するに至るであろう。この最後の変化に先だつ時代は、混乱と災害との時代であろう。しかし結局すべてが怪物に呑み込まれてしまい、人民はもはや首長も法律ももたず、ただ僭主だけをもつこととなろう。この瞬間からまた、習俗や美徳が問題にならなくなるであろう。なぜなら、「美徳について何の期待ももてない」専制主義の支配するところではどこでも、専制主義は、けっして他のいかなる主人をも許容しないからであろう。それが口をきくやいなや、そこには考慮すべき誠実も義務もなくなり、極度に盲目的な服従だけが奴隷に残された唯一の美徳となる。」1754年6月12日 シャンペリにて。ジャン・ジャック・ルソー / 『人間不平等起源論』岩波文庫
「災厄、凶作、災害、流行病などで荒廃した国にあっては、世の人びとを救済するのに寛大であってください」
今から千九百年前、二世紀のインドに生きた仏教僧、日本では「八宗の祖師」と尊称されるナーガールジュナ(龍樹菩薩)の言葉です。
ある時、仏教の大家であったナーガールジュナは、南インドのシャータヴァーハナ王朝のガウタミープトラ・シャータカルニ王、あるいはヤジュナシリー王へ宛てて手紙を認めました。その手紙の内容は、災害に直面した際の指針をはじめ、世を統治する王に対して具体的な行動を教示するものでした。
「あらゆる悪を離れ、あらゆる美徳で飾られ、生きとし生けるものすべての唯一無二の友である全知者(仏陀)に、私は礼拝して、王よ、あなたに法(ダルマ・真理)が栄えますように、ひたすら善なる法を説きましょう。法は(あなたのような)正しい法の器において完成するのでありますから。」
「災厄、凶作、災害、流行病などで荒廃した国にあっては、世の人びとを救済するのに寛大であってください」(第三章・五二)
「田地を失った人びとに対しては、種子や食物をもって救済し、努めて租税を免じ、または少しでも租税を減じてください」(第三章・五三)
「貪欲の病患からよく守り、税を免じ、または税を減じ、それらについてまつわる煩悩から離れるようにしてください。」(第三章・五四)
「王がたとえ真理に背くこと(非法)や非道をなすとも、王に仕える人びとは概して称讃します。それゆえに、王にとっては正当か正当でないか、を知ることがむずかしいのです。」(第四章・一)
「たとえほかの人であっても、その人の気に入らないばあい、正当なことを語るのはむずかしいのに、まして、あなたは大王であり、その王に修行僧である私が語るときはいうまでもありません。」(第四章・二)
「しかし、あなたによって下される慈愛によって、また世の人びとへの憐れみから、私はひとりあなたに、たとえまったくお気に召さないことであっても、道にかなったことを語るでありましょう。」(第四章・三)
「弟子には、時機を選び、慈愛をもって、安らぎと意義に満ち、道にかなう真理を語るべし、と尊き師(仏陀)は説かれています。そこで、如何に私はあなたに教えを説きましょう。」(第四章・四)
「教えが説かれるとき怒りを起こさず、また真実のことばに耳を傾けるならば、その人は聞くべきことをうけいれるでしょう。沐浴をするときに良水をとるように。」(第四章・五)
「私がこのことばを述べるとき、あなたはそれがこの世にあってもかの世にあってもふさわしいものであると知って、自らを利益するためばかりでなく、世の人びとをも利益するために、それを実行してください。」(第四章・六)
「以上のように、私はあなたに要約して法を説きましたが、その法をあなたはつねに自らの身を愛するように、愛してください。」(第五章・八八)
「もしこの法を愛するならば、その人は結局は自己の身を愛することになります。愛し利益をなそうと願うなら、その人は法を行うでありましょう。」(八九)
「したがって、自己に仕えるように法に仕え、法に仕えるように道に仕え、道に仕えるように知恵に仕え、知恵に仕えるように知者に仕えてください。」(九〇)
「浄らかであり、慈しみがあり、知恵があり、恵みをもって利益をなさんとして語る者に、だれであっても自ら卑しく疑念をはさむならば、その人は自己のわずかの利益さえもそこなうでありましょう。」(九一)
「浄らかである、慈しみがあり、知恵があり、ことばに才知があり、利益をなさんとして語る人に対して、「私は守護者(仏陀)とともにありましょう」と人主(王)は自ら自制の心を起こしてください。」(九二)
「このような善き友の特質を要約してお知りください。満足と慈悲と戒めをそなえ、煩悩を除く知恵がある、と。」(九三)
「彼らがあなたに教えるならば、あなたはそれを知り、尊敬してください。この完全無欠な教理によって実践する者は、最高のものを得るでありましょう。」(九四)
「この法は、ただ王のみに説かれるのみならず、他の人びとにも道理に合わせて説かれるのであります。彼らに利益を与えようと思うからであります。」(九九)
「自他のすべてが完全なさとりを完成するように、王よ、この教えが説かれることを、日々よくお考えください。」(一〇〇)
「戒め、師への尊敬、忍耐、無嫉妬、物惜しみ(見返り)を離れ、望むことなく他のために財を所有すること、貧に堕している者を救済すること、善を守り悪を捨てること、正法を受持すること、菩提を求める人びとは、これらをつねに実践してください。」
『宝行王正論』(一連の宝珠―王への教訓・瓜生津隆真 訳『大乗仏典』中央公論社文庫)
ルソーの言葉は人間や社会を的確に捉え、現代の世相を予見しているようです。しかし、それらは評論の枠を出ず、二つの言葉を並べてみるとナーガールジュナの言葉は具体的な行動を促すための「教導」であることが分かります。
人間を知り、社会を知り、自己を知って、行動を起こす。
災害に遭遇すれば慈愛をもって他の救済に立ち上がる。
仏教とは、迷惑する私たちに対して具体的なアクション、行動を促す教えであることが理解できます。
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