2011年5月9日月曜日

あきらかにする

「諦める」は仏教では「あきらかにする」と同義だ。明らかにしなければ本当の対策は出来ない。制御不能の恐ろしい事態。周辺の方々に徹底的に陳謝して安全に避難いただく。さらに大規模に。政府や東電だけの問題にしていても終息は不可能ではないか。
ベント一つ気にして判断していては、不安定な原子炉の終息はおぼつかないのではないだろうか。さらに大規模な放射性物質の飛散が起こることが最も恐れるべきこと。無論、だからといって近隣に放射性物質をバラまいていいわけがない。ただ、中途半端な現状認識で、大規模な、二次、三次災害を招くような甘い判断では戦えないのではないかと危惧する。
全国民が同じく痛みを分かち合えば、乗り越えられる。化け物を制御するためにベントが必要ならばするしかない。感情論では怪物に勝てない。
そして、そんな恐ろしい化け物や怪物だから、もう人類が手にすべきではないものだと認識すべきではないのか。
ずっと書き続けているが、何とか国をあげて、私たちみんなで、避難地域を広げて、避難を余儀なくされる方々を支えられないだろうか。
撤退や避難は、「諦める」ことではなく、「あきらかにする」ことで、みんなが健康で生き残り、子どもたちを守るために必要ではないか。
鳥インフルエンザでは養鶏場の何万羽の鳥、口蹄疫では何万頭の牛を「諦めた」方々がいる。天災ではないから許せない気持ち。ただ、感情論では戦えない、鳥インフルエンザや口蹄疫に匹敵する、いや、それらを上回る恐ろしい怪物だと、私は思うのです。

0 件のコメント:

炎の中にあるもの

人は死ぬ。必ず死ぬ。どんなことをしても150年生きる人はいない。人は老いる。人は病む。そして人は死ぬ。 生ものだから死ねば腐る。だから埋めるか、土に返すか、燃やして灰にするか、動物に与えるか、する。世界には様々な葬送の仕方がある。 仏陀は火葬された。仏陀は分骨された。ガンジス川に...