ほんもんさんアート市。
北野の地で、とっても定着してきています。
「ほんもんさん」というのは、主に関西で「本門佛立宗」のことを呼ぶ時に使う言い回しです。
ほんもんさんの、アート市。
出店も多くて、ありがたいです。
いつものように登光師が紙芝居をしてくれていますが、今日は新しい試みとして来館者の方々に鳴滝の舞台から「御法門」をしていただきました。
今日は宮城県石巻市で100万人のクラシックライブが開催されますが、財団創設者の蓑田さまご夫妻も立ち寄ってくださり、タイミングよく初めて「御法門」を聴聞くださいましたー(笑)。ありがたい。
この他、今日はスリランカカレーやスリランカのお菓子「コキス」の無料提供などをして盛り上がっています。
この後、上七軒の歌舞練場で開催されているJAGDAの全国大会にお招きいただいているので、ご挨拶にお邪魔します。
あっち行ったり、こっちに来たりですが、今日も有難く生きています。
鞄の中に、セネカの『生の短さについて』を入れて読んでいます。
違う角度から、高祖の「されば先ず臨終を習ふて後に他事を習ふべし」をお伝えしたいと思い、人類普遍のテーマについてセネカの書を取る。
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」セネカ
「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学びなさい。」ガンジー
時間は平等に過ぎてゆくように見えて、時に羨ましいほど、時に哀れに思うほど、その濃淡や厚薄はそれぞれに違います。
「パウリーヌス、死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。彼らが考えるところの、この万人共通の災いに恨みをもらすのは、何も一般の大衆や無知な俗衆に限ったことではない。名のある人々もまた、この思いに捉えられ、怨嗟の声をあげるのである。医家の中でも最も偉大な人の例の言葉も、この思いに由来する。曰く、「生は短く、術は長い」。自然を諌めて、哲学者にはそぐわない争いを起こしたアリストテレースの告発も、この思いからのものである。曰く、「自然は動物にはこれほど長い寿命を恵み与え、人間の五倍も十倍も長く生きられるようにしておきながら、それに比べて、多くの偉業をなすべく生まれついた人間に定められた寿命はあまりにも短い」。われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。莫大な王家の財宝といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど約(つま)しい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然と斉(ととの)える者には大きく広がるものなのである。」
深いっ。
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