今回の自分の可能性を、100%引き出すのはとても大変。
鍛えれば筋肉モリモリになれると分かっていてもなかなかトレーニングできないし、ダイエットもモデルさんのようには続けられない。
圧倒的に多くの人たちが、やれば出来ると思いながら、出来ないでいるものです。
仏陀の説いた教えは、今回の生命を最大限に引き出そうとするものでした。
それは単なる哲学ではなく、倫理でもなく、具体的なメソッドでした。
しかも、センスのある人、やる気のある人、真面目な人、賢い人だけが出来るというものではなく、センスの無い人、やる気もない人、不真面目な人、時には暴漢や詐欺師や殺人犯、賢いどころか全くモノの覚えられない男の子にまでを対象に、その人たちが今回の生命を100%生き切れるように教え導いたのですから、想像を絶するインパクトがありました。
膨大なお経の中に、しっかりと仏教のエッセンスやメソッドを見つけないと、分からなくなってしまいます。
確かに、膨大なお経をそのままいただこうとすると、相手の状況やレベルによって教えを説かれたので、統一性が無いように感じることもあるでしょう。
さらに時代が下ってゆくと、伝承者や翻訳者による意図的な改ざんや創作が行われるようになり、「お経」「教え」というものの価値が見失われ、本質まで分からなくなってゆきました。
かといって「不立文字」という教義を敷いて「仏陀は菩提樹の下で覚り開いたのだから私たちもただ座禅すればいい」というのは大変怖いことで、新興宗教の多くと同じになってしまいます。
仏陀の教えのいいとこ取りをしても、答えの無い、出口やゴールのない道を歩いているようなことになります。
まず、あらゆるお経、顕経も密教も、大乗経典も小乗経典も、北伝、南伝、ありとあらゆる仏教教典を、すべてテーブルの上に出して、その上で、教えの中に、普遍性として、勝れたもの、劣るもの、深いもの、浅いものがあるということを念頭に、判別してゆく作業が必要でした。
一つをダメだと言ったら、全部がダメになる。膨大な仏教教典を、すべてテーブルの上にあげて、お敬いをしながら教えの「相」を判じたり、釈したりしてゆくことは、確かに「不立文字(文字を立てず、優先せずに、とにかく座禅しよう、瞑想してみよう」」言いたくなるくらい、大変な作業であり、慎重さを求められる仏弟子たちの努めでした。
『仏教徒 坂本龍馬』の原稿では書いていたのですが、出版前に割愛した部分に、歴史の教科書で「鎌倉新仏教」と呼ばれている社会現象について触れた箇所がありました。
鎌倉期、比叡山という日本仏教の最高学府を中心に、現在まで連綿と続いている仏教の創始者たちが生まれたという現象です。
なぜこうした現象が起こったかということを、武家社会の台頭による社会の変革期に応じて生まれた現象ということも出来ますが、もっとシンプルな、仏教史上の理由がありました。
それは、この鎌倉期に、ほぼお経がすべて入り終わった、ということです。
平安期は、まだまだ日本に渡っていない、日本人にとって新しいお経が、中国から日本に段階的に、散発的に、入ってきていました。
そうした仏典の渡来が、ほぼ終結し、「一切経」と呼ばれる、ほとんどのお経が所収されているお経集となりました。
これを用いて、多くの学僧たちが「いずれが仏陀の真意か?」「最も救済力のある教えはどのお経に説かれているか?」「真実を述べておられるか?」「本意を述べておられるか?」ということで探求されたのでした。
特に、鎌倉新仏教の中で、このことを自ら完全に実施されたのは、日蓮聖人だけでした。
「あぁそうなんだ」と思われるだけかも知れませんが、私が思うに、この点は最も大切な部分で、最も感動、感激させていただくところです。
日蓮聖人は、その最重要書物とされる『観心本尊抄』の中で、あっさりと「しかるに新訳の訳者ら、漢土に来入する日、天台の一念三千の法門を見聞して、あるいは自ら所持の経々に添加し、あるいは天竺より受持の由これを称す〜」などと書かれ、仏典の中には創作や仏弟子や訳者の改ざんがあるものも含まれていると承知しながら、それでもなお「不立文字」とはせず、まず、ほぼ全ての仏教経典をテーブルの上にあげて、心から尊び、敬った上で、その勝劣、浅い、深いをたどり、最も普遍的な、つまりは宗教的なセンスのある人や修行に熱心な人だけにメリットがある、ゴールに行けるという教えではなく、ありとあらゆる人にとってメリットがあり、ゴールにたどり着ける、本物の仏教を探求された。
この心と作業が無ければ、もし、一つでも取り上げずにいれば、人類の宝ものであるはずの仏教は、すべて曖昧な、身勝手な解釈が成り立つものになってしまったはずです。
一つが違うなら、全部違うということになりますから。
日蓮聖人のお言葉から分かるように「大乗非仏説」など全く真新しい理論ではなく、そうしたことを踏まえながら仏陀の本懐を守り訪ねる作業を連綿と続けられたのです。
「是の如きを我れ聞きき(エーヴァム・マーヤー・シュルタム))」
あらゆるお経の最初の言葉は、仏弟子のこの言葉から始まっています。
これが、仏教、仏教の信心です。
「このように聞きました」
この言葉を疑えば、仏弟子ではなく、仏教徒ですら無くなり、仏教が壊れてしまいます。
だから、「獅(師)子身中の虫、獅子を食む」というのは、ほぼ無敵のライオンのような仏教という教えが壊されるのは、仏教を敬っているようで敬っていない、仏弟子だけによる、という意味です。
こうした思索、こうした認識、こうした事実を踏まえ、はらわたとしてお腹の中に据えておかなければ、本物の仏弟子、仏教徒として世界でご奉公することが出来ず、単に独善的になったり、ただお坊さん同士でご挨拶だけして終わることになり、「仏教」を語れないと思います。
お祖師さま(日蓮聖人)がなさったことを、頭の中で理解するのではなく、現実世界の中で実践することが出来ればと思います。
仏教こそ希望だと信じているから。
何かのために「仏教」を「利用」する人や場面が増えていると思うのですが、それだけではやっぱり答えのない話を繰り返し、ゴールのない道を歩かせて、「はい来週!」「はい次回!」で終わってしまうと思うので、しっかりと世界に通じる仏教を伝えてゆきたいと思います。
長野に着く前まで、ダラダラと思うままに書いてしまいました。
いつも長文ですいません。
しかし、まだまだ書きたいこと、お伝えしたいことがあります。
書かない方がいい、言わない方がいい、静かにしているのが一番、というアドバイスもありますが、そうしていたらダメになりますし、そうしているからダメなのだと思っています。
仏教の話を、分かりやすく、正しく、お伝えしてゆきたいです。
だから、心が開く、確かに答えがあり、ゴールに近づいている、毎日手応えがある、という生きた仏教を。
すいません、長文。
長野県信濃町は、小高い丘の上から見下ろすと、南フランスにいるみたい。
空がキレイだ。
1 件のコメント:
ありがとうございます。いつの仏教をお教えいただきありがとうございます。これからもお忙しいでしょうがどんどん伝えてください。残念ながらこのブログでしかお教えいただけない状況ですから。お教務のことをとやかく言ってはいけませんね。テラコヤスコラの海外布教X仏教でお祖師さまの五重相対のお話の続きをぜひお教えいただきたいです。「この続きはまた」的な感じでしたのでずっとお待ちしています。part2心待ちにしています。ブログで一生懸命ご信心改良を心がけているご信者はほかにもたくさんおられると思います。健康に気を付けていただき今後もお導きください。
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