私自身、またネパールで、そして帰国後、気づいたことがあります。
今日の教区御講で、ネパールにご一緒した野崎さんからお話がありました。
一人ひとり、たくさん感じて、帰ってきてくださいました。
不便で、貧しくて、平地が少なく作物を育てるのも大変なネパール。
小さな段々畑ばかりですから、手に入ったとしても農業用の機械を使うことも難しい。
それでも、別に問題ない、大したことはない。
むしろ、それが当たり前になってしまうと、一つひとつの有難さをひしひしと感じてくる。
不便なのに、貧しいのに、食物も質素なのに、有難くて、愛しくて、美味しくて、仕方なくなる。
何も無い中の自分。
不便な中を満たされて、快適に過ごした自分。
帰国して、溢れかえる情報の中で、疲れ切ってしまう自分。
不便で、貧しくて、質素だから、何が必要で、何が大切かが分かるのでしょうか。
テレビから流れる情報も、スマホで眺めている情報も、ほとんど自分には必要ないものばかり。
そんなことに使う時間がもったいない。
しかし、慣れてしまえば、テレビを眺めて、スマホをいじる。
こりゃダメだ。
便利な中で、豊かな中で、焦る自分、物足りなさや切なさを感じる人びと。
日が昇り、日が暮れて、大切な人がいて、大切な話をして、大切な話を聞いて、心を通わせたいと思う。
こんな当たり前のことが、いろいろなものに邪魔をされて、そこにどっぷりと浸って、必要の無いことに時間と心を費やしている。
本当に、不思議なものです。
世間の地位、名誉やお金、必要と言えば必要と言うでしょう。
しかし、それがあるからこそ、それに振り回されているからこそ、幸せになれない人ばかりではないでしょうか。
イヤだと言っても、自分で求めている。
謗法と罪障の根源、さまざまな苦しみの原因は、飽くなき欲望です。
ネパールの人たちにも欲望はあるし、私たちがネパールに住んだら幸せになれるということではなく、ここで「気づける」ことがあるということだと思います。
だから、この日本の中で、もう巻き込まれずに生きよう、振り回されずに生きよう、まっすぐに生きよう、と思えるのです。
もちろん、生きてゆくためにお仕事は大切、欠かせない。
しかし、そのために失うもの、見失ってしまうものがあることも事実だから。
永遠の中の有限の僕たち。
人生の時間はこんなにも限られているのに、変な関係に引きずられ、縛られていてはもったいない。
楽しい時間を過ごすことも大切。
それはどの国でも一緒だから。
しかし、便利で、豊かな国の中で、多くの人がどうでもいいことに振り回されて、大切なことを忘れたり、見失ったりしています。
不便だから気づける。
便利だから忘れる。
豊かだから見失う。
そういうことがあると思います。
世界中を歩き、海外弘通の中でも、スリランカやインド、ネパールでご奉公させていただいてきて、今ようやく気づけることがあります。
大切なものは、なにか。
ちょうど一年前の今夜、私は旭のお通夜を勤めていました。
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