いま、シンガポールなので実感は湧きませんが、10時間後には宗会のご奉公で京都にいるはずです。少し遅れそうで、小野山師にご奉公をお願いしました。快く受けてくださり、ありがたい。本当に、ありがたいです。
話題は変わりますが、ご信心でも、人生でも、師をいただくことほどの幸せはなく、師がいないことほどの不幸はありません。これは間違いなく、真実だと思います。
これは、知識では得られないものです。自分で何事をも判断出来るようになることは大切です。ずっと誰かに判断を仰がなければならないなんて、それはそれで不幸なことです。日本教育の批判に、グライダーか飛行機か、というものがあります。日本の教育はグライダー人間ばかりを作るもので、自分で飛べる飛行機のような人間を作れていないのではないか、と指摘されています。これも一理あると思います。ただ、こうした批判を展開する人でも、飛行機になるためには、やはり最初は素直に、師について学ばなければならないとは言っています。いずれにしても、師は、欠かせないものなのです。
開導聖人は、お弟子の教育に「法門合わせ」という方法を当ててご弘通の器を育成しようとされました。仏教ですから「師に仕ふるには過ぎず」で、師匠がいない人などいないはずなのですが、一人立ちしたつもりになって、自分でご指南を解釈しようとすると、本質を見失ってしまう者が出てくる。しかし、そういう者に限って、さも自分は分かっている、自分だけ正しいようなことを言って、結果として、多くの、素直な人を迷わせ、間違った道に誘ってしまう。これを、本当の謗法の者というのですが、何が間違っているのかも分からない。本人は、いたって真面目だったり、疑いなくご指南をいただいていると思い込んでいる。慢心の森に迷い、人に間違ったことを披瀝していくのですから、恐ろしいことです。
そんな弟子たちを教導してゆかれたのが開導聖人であり、顕著な、分かりやすい教育方法が「法門合わせ」でした。
例えば、以下のようなご指南があります。右と左の意見を聞きながら、開導聖人が勝劣を裁定されます。よくよく、拝見していただきたい。どちらも、今の私たちが言いそうなことです。読んでゆくと、どちらも間違っているとは判断しにくい。ただし、開導聖人は、はっきりと教えてくださっています。
ですから、我が物顔や、したり顔で、さも、自分だけが正しいような気持ちでいるのは慎みなさい。本当に、大変な謗法を犯しているのです。
皆さまも、迷わないようにしてください。ただただ、それを祈念しています。
「続集二六 三十番法門合」十九番
「謗法の者と共に住すべからず 供養をもうくべからずとは、
右云 これは不受不施にはあらず 謗法の者と共に住すべからず 又謗法の者に供養すべからず 又謗法の僧は袈裟をかけて諸人に供養をうくることはならぬと仏のいましめ給へる也 大般若経第五百四十四巻の説を見るべし 故に奉公人たりとも一日一夜たりとも当宗になしおくべきことこれなり 謗法人に供養はすべからず謗法人の供養をするとも行者はうくべからず 此経王をありがたしと謗法ながらも思ひてする供養はくるしからず 故に修行にも出。又はさいせん箱も本山に出しおくはこれ也 実に経文の如くならば謗者をせめずして眼に見ることもけがらわし いわんやことをまじへんをや。ましていわんや堂社を見物せんをや。但し謗法をせめんが為に眼にも見。言葉もまじえ堂社へも行べし これは折伏のことなれば勿論のことなり 又不受不施は禁制なれば受不施は当門の常なり これ国土の風俗にしたがふなり 故に謗法人に供養をうくるには此経に順になりとも逆になりとも御縁をむすばしめ
んと大信力に住して回向してうくべきことなり 謗法人の何のわけもしらぬか三宝に花を敬てまつるにうけざれば慈悲なきなり まして小児なんどが土の餅にもせよ奉らんに うけざれば無慈悲なり 故にうけて回向すべきなり 又謗法人に題目をとなえてきかしむるも供物等をやるもこれは御縁を結ばしめんが為也 一紙半銭謗法の堂社へ布施するは謗法也。
左云 たとひ現世に白痴人となるとも乞食となるとも謗法の者と共に住せず よしや命に及ぶとも謗法人とくみせず なんぞ謗法人に供養をせんをや これは一句一字たりとも法花経をそしるを聞て其者とはともに居がたし いはんやしたしみ近づかんをや 謗法人にしたしみ近づくこと阿鼻大城におつるよりもいまはし。いかにとならば謗法人のいふことを万が一も信用する事あらば忽ちに地獄を感ず 故に初心の行者は猶更したしみ近づくことをゆるさず 同座無間とはこれなり。
判云 右の説くはしく行届たり 左の説わろきにあらず 経説にかなへり さりながらこころたらざれば右勝也。」
皆さま、どうか開導聖人に「ギリギリ、アウト!」と言われないように。
ありがとうございます。搭乗します。
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