2010年5月26日水曜日

龍馬伝 「故郷の友よ」

 久しぶりに見応えのあるNHKの大河ドラマ。そう思うのは、ひいき目だろうか。龍馬の魅力、龍馬という青年の群像が持つ魅力は、時代が変わっても色褪せていないことを証明しているように思う。

 それにしても、今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、本門佛立宗と縁が深い。毎回、観る度にそれを思う。

 その「龍馬伝」が全国で巻き起こすであろうブームを見越して書いたわけではないが、年頭から「坂本龍馬と本門佛立宗」という記事を書いた。そこでは佛立開導日扇聖人全集に所収されている資料から、龍馬と開導聖人の結びつきをご紹介した。

 龍馬の指示を受けながら「海援隊文士」長岡謙吉が書いた「閑愁録」は、日本の仏教者に宛てた坂本龍馬の公開質問状であった。残念ながら、これを著した直後に龍馬は没した。しかし、この閑愁録を読み、これを極めて高く評価し、これに真っ正面から応えて後世に遺されたのは本門佛立宗の開導、長松清風日扇聖人しかいなかったのである。

 今でこそ龍馬ブームが世を席巻しているが、開導聖人が閑愁録を手にされた当時、坂本龍馬の名も、海援隊の名も、世の人の知るところではなかった。土佐出身者による意図的な挿話かもしれないが、明治37年に始まる日露戦争にて、皇后の枕頭に総髪の志士が立った。その姿を聞いた政府出仕者が、「それは坂本龍馬に違いない」と言い、にわかに注目を集めたという。

 いずれにしても、開導聖人と坂本龍馬には、妙不可思議な符号やご因縁があった。

 まさに、年頭の記事に書いたとおり、今や全国が龍馬ブームに湧いている。サッカー日本代表のワールドカップ出陣にまで、龍馬が駆り出されている。自民党を飛び出した富裕な政治家が自分を龍馬に模したり、青いユニフォームを龍馬に着せてみたりするのを観ていると苦笑してしまう。まぁ、龍馬のことだから、苦笑いをして終わりだろうけれど。

 昨夜、録画しておいた龍馬伝「故郷の友よ」を観た。龍馬の人生が、歴史の渦に巻き込まれて、慌ただしくなっていく。決別した友の別れ、それでも友を思う龍馬。過酷な運命が彼らを襲い始める。演技に泣くのではなく、彼らを襲う運命、決別せざるを得ない人間というものの性を観ていて、涙が出てくる。武市さん!以蔵さん!とこちらも叫びたくなる。

 龍馬の友人に限らず、これ以降、明治維新に至るまで、全国に累々たる若者たちの屍が築かれていく。吉田松陰が「孔孟箚記」に引用した「志士は、溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉が現実のものとなっていった。「志士(志ある者)は、義を貫き、使命を果たすためならば、自分の死骸が溝や谷の下に捨てられていることを常に想像し、その覚悟をしておかなければならず、勇士とは自分の首が切り飛ばされて前に転がることを常に想像し、覚悟しておかなければならない。」

 現代人からすれば理解できない死の迎え方、臨み方をする青年たち。彼らは、自ら任じた役割、使命のために、次々に殉じていく。「累々たる屍」になど、誰もがなりたくはない。しかし、彼らは現代人のように、日和見的でも、格好つけでも、自己中心的でもなかった。誰もが、志を持ち、志のために命を懸けて生きていた。

 「義」という字は、「我」を「美」が押し潰している字だという。その意味するところは、「美しく生きるためには我を通さない、我に従わない。」ということだろう。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」というお祖師さまの御妙判や、「義はつよく~」という御教歌を思い返して、私たち仏教徒、佛立信徒にとっての「義」を考えなければならない。

 それはともかく。どうしても、話が脱線してしまう。難しいことを書くつもりはなかったのだが。

 その大河ドラマ「龍馬伝」が23日に放送した「故郷の友よ」という回を観て、驚いたことがいくつかった。やはり、龍馬を語れば、本門佛立宗との御縁が深くなるのは当たり前。随所随所に、開導聖人の生きておられた時代、ご奉公されていた息吹を感じる。

 まず、放送開始直後6分に出演した薩摩藩士、高崎正風という人物。やはり、ポイントを心得ている。この人物は、極めて、極めて開導聖人のご縁の深い人物なのである。

 長州の久坂玄瑞が朝廷に攘夷継続を嘆願していた背後で、薩摩は過激な攘夷思想と距離を置くよう朝廷に諭していた。場面が切り替わり、薩摩藩士が登場する。それが高崎正風なのである。この時、高崎正風は「左太郎」と呼ばれ、京から長州藩の追い落としを図って八月十八日の政変を成功させ、薩会同盟の立役者となった。幕末は薩摩の京都留守居役として活躍するが、最終的には武力討幕に反対したため藩内で西郷隆盛らと対立。維新直後は不遇だったが、最終的に新政府に出仕し、岩倉使節団に加わって西欧諸国を数ヶ年視察した。

 明治8年から宮中に出仕。御歌掛などを勤めて、明治21年には御歌所初代所長に任命。明治23年、初代國學院の院長となった人物。 不明な点は多々あるが、その高崎正風は、明治23年にご遷化された開導聖人と深い親交を結ばれていたのである。

 最近、インターネット上に開導聖人のことを紹介する記事が増えてきた。誰が書いたのか定かではないが、次のようにな一文があり、そこに高崎正風とのエピソードが紹介されている。

 「長松清風は、書画においては江戸末期の三筆と言われたり、当時の知識層などが掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されたり、明治天皇の和歌の教師であった高崎正風が清風の詠んだ歌を優れた歌として明治天皇に紹介し、明治天皇から清風の歌を非常に賞賛されていることを知らせる使者が清風の元に使わされており、明治天皇以外にも三条実美などの公家にも清風の短冊を所望する声が多かったという。江戸末期から明治を代表する優れた文化人とも言える。」

 開導聖人の御指南書「三界遊戯抄」には、明治14年の9月中旬、既に明治天皇のお側近くに出仕をしていた高崎正風氏が、わざわざ東京から京都まで来られて開導聖人と面談されたことが明らかにされている。何のために、どのような経緯で。

「草がくれながるゝ水もせかれては 世にありがほに音たてぬめり。
十月五日の朝聞 玉田のはなしに。
天朝に吾草かくれの睿覧にて御手習ひの事 むつかしとて御困云々。
天朝御歌師範 高崎正風 四十才餘 明治十四年九月中旬 東京より来る」

 上記、御指南中にある「玉田」は「ぎょくでん」と読むのだが、「村田玉田」のこと。開導聖人の姉・うた(妙遠)の娘。夫は村田香谷。昨夜、小林信翠師から資料を送ってもらうまで村瀬雙石と村田香谷、村瀬玉田と村田玉田を混同していた。

 開導聖人は、10月5日の朝、この姪である玉田から明治天皇についてのお話を聞いた。それは、数週間前に高崎正風が京都まで来て開導聖人と面談し、開導聖人から御歌と書をいただかれたことに対する明治天皇の反応であった。

 開導聖人と玉田とは叔父と姪の関係。夫となる村田香谷は福岡県備前出身で、皇后陛下の乳母にかわいがられていたという逸話もある。天保の頃に筑前の四大画家と呼ばれた村田東圃の養子で、山水に巧みで、詩書も能くした。開導聖人の生家である大路家の姻戚が皇室や公家と緊密な関係を持っていたことの証左の一つである。

 しかし、いずれにしても、これらの方々と親しくされながら、天朝に出仕していた高崎正風とのご縁、そして明治天皇ともご縁を有しておられたことが分かる。

 幕末の京都、ご維新前後の世情や人の動きには、後世の私たちには未だ見えないことがある。ただ、点と点を結んでゆけば、少なからず開導聖人の生きておられた時代と人々との関係が見えてくる。

 もしや、開導聖人は高崎正風とは幕末から旧知の仲であったかもしれない。「龍馬伝」でも度々出てくる公卿・三条実美についても、先のエピソードにあるとおり短冊を所望されたり、様々なやりとりが行われていたことが明らかになっているからだ。

 司馬遼太郎の「歳月」という小説でも高崎正風は登場する。この小説は、明治新政府の初代司法卿(大臣)となった江藤新平の幕末から維新後を描いたもの。この小説について今は述べないが、ここでも、「幕末」という壮絶な激動期の人間たちの動き、理想と情熱と狂気、その様々な情景を、肌で感じることが出来る。世が変わる時のこと。

 この小説の中で、高崎正風が出てくるシーンは以下のようなものである。この場面は主に鍋島閑叟(備前佐賀藩)を中心に描かれている。閑叟は「葉隠」に代表される保守的な風土の中にいながら進取の気骨を持つ勤勉家。名君として知られていた。

 それは、幕府にとって最後の年となった慶応4年3月18日の夜のこと。

「- 幕府がつぶれたのだ。(乃至)
出かけたのは、祗園「左阿弥」という家である。会同した諸侯は、いま天下をうごかしている新政府側の雄藩の当主ばかりであった。
 薩摩藩のわかい当主である島津忠義、幕末、もっとも劇的な波瀾をくぐりぬけてきた長州毛利家の世子である元徳、芸州広島四十二万六千石の浅野長勲、大名のなかではわかいながら才器できこえた阿波蜂須賀家の世子茂昭などで、閑叟はこのなかでは年がしらであった。
 この座席を世話しているのは薩摩藩公用方の高崎佐太郎(正風)らで、かれらがもっとも苦心したのは上座、下座の席順であり、これはほとんど判じ物といっていいほどにむずかしかった。なにしろ、大名たちが私的に会合するようなことは江戸三百年のあいだなかったことであり、参考にできるような先例がなかった。また、大名の席次というのは江戸城の詰間で公式にはきまっているが、しかし幕府が消滅した以上、過去の秩序である。朝廷からもらっている官位の順にするのも一案であったが、それもこの私的な席では生硬すぎるようにおもわれる。結局、~」

 幕末の前後、高崎正風は京都を舞台としてこのような周旋方をしていた。この頃、若い頃から公家の邸宅で講義をしていた開導聖人と知古になっていても不思議ではなかった。三条家か、あるいは他の公家か。

 また脱線するが、このエピソードには詳細な記述があって面白い。大名が芸者遊びをするのも初めてなら、芸者も大名を見るのは初めて。「無礼講」と言っても双方が固い。酒宴となって年頭の芸者が酔い、「みなさま、お長うございますこと」と言ったという。「長い」とは顔のことで、ここに集まった大名たちは、島津をのぞいて全員顔が短冊のように長かった。

 この冗談を聞いて高崎正風らは青ざめたが、すかさず閑叟が「ここに宇和島がくればわしも丸くなる」と言った。宇和島藩の伊達宗城は「長面候」というあだ名があるほど顔が長かったという。酌の相手は祇園でも三指に入る名妓「静香」と言った。ちなみに、「左阿弥」は今も京都の円山公園近くにある。

 とにもかくにも、文章が長いのはこのブログの悪い癖だと思っていただきたいが、「龍馬伝」に高崎正風が出ていて、本門佛立宗、開導聖人とのご縁を思い返して、感動したのである。

 さらに、今回の龍馬伝 「故郷の友よ」を観ていて、放送開始後18分頃(調べたてしまった)に驚いた。それは、龍馬と饅頭屋・近藤長次郎とが激しく語り合うシーン。その背後で、拍子木の音が鳴り続けていた。すごい、きっと本門の御題目、お看経に違いない。

 「大阪海軍塾(勝塾)」があったといわれている大正区三軒家東など、本門佛立講のご信者方が活躍しておられた地域。時代考証をしてゆけば、この地域、この時刻に、拍子木の音が響き、御題目の声がしていたことは間違いない。映画「三丁目の夕日」など、昭和の下町の夕方も、拍子木の音がどこからともなく聞こえていたはずで、考証を重ねたら本門の御題目、佛立宗のお看経に行き着くはずだ。


 とにかく、こうしたエピソードを見聞きして、私たちのご信心のルーツに誇りを抱いていただきたいと思う。そして、今の自分たちの信心を省みて改良を心がけるべきだと思う。

 下に掲げたのは、長松寺に掲げられている扁額。明治天皇にもお見せいただいた、

「草がくれながるゝ水もせかれては 世にありがほに音たてぬめり」

の書画である。見事としかいいようがない。


 本当に、開導聖人の尊さを、思い知らなければならないと思う。「ある時は敬い、ある時は尻に敷き~」ではダメだ。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます。
龍馬伝第15話「ふたりの京」の冒頭、加尾と龍馬が久しぶりに出会うシーンを見ていて、拍子木の音が聞こえ、ネットで検索すると行き着いた先が清潤師のブログでした。

色々な方々から、「昔の時代劇では。」「時代劇の映画では」と、前置きを付けて、拍子木の音が流れてた。それは、当時の記録に音が流れていた。つまり、いつも何処かで御看経をしている人が居たから。
という話を伺ったことがあります。
まさに、その状況を感じることが出来ました。

突然のコメント申し訳ありません。
とても嬉しくて、なにか言葉を残さずには居られませんでした。
失礼いたします。
ありがとうございます。

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

ありがとうございます。
長い文章を読んでいただいただけでも、恐縮ですし、有難いです。ありがとうございます。

仰るとおりです。お看経の音。あの頃、必ず聞こえていたのでしょうね。もっともっと、各ご家庭からお看経の声や拍子木の音を出したいものですね。世の幸せを願って。

ありがとうございます。

幸の湯、常さん、北九州

帰国後、成田空港から常さんの枕経へ直接向かいました。 穏やかな、安らかなお顔でした。こんなにハンサムだったかなと思いました。御題目を唱え、手を握り、ご挨拶できて、よかったです。とにかく、よかったです。 帰国して、そのまま伺うことがいいのか悩みました。海外のウイルスを万が一ご自宅へ...