2010年5月1日土曜日

班長さんへの手紙 (役中テキスト 5月号)

 ありがとうございます。

 妙深寺のご信者さんは、明るくて、元気で、優しくて、本当に素敵な方が多い。所作振舞が美しい。住職として、これは自慢です。本当に嬉しい。有難い。

 しかし、一方で心配なことがあります。それは、お折伏の出来るご信者さんが少なくなっているのではないか、ということです。これを読んでおられるお役中は、お折伏のご奉公をどのように考え、実践は出来ているでしょうか。
 「折伏は慈悲の最極」です。お折伏とは思いやりと慈しみが最も極まったご奉公。何でも受け入れたり、受け流したり、言うことを聞いてあげるだけではいけないのです。これは本当の優しさにはなりません。
 本当に愛している、思いやって慈しんでいるなら、言うべきことを伝える、功徳が積めるように勧める、悪い習慣を止めさす、謗法を指摘する、信心の改良を促すのです。
 皆さんのご奉公をご用聞きのようにはしたくないし、考えないでください。お寺はそのようなことを望んでいません。あくまでも、「如来の使い」であり「御法さまのお手伝い」です。自分であって自分ではないのが菩薩のご奉公で、菩薩のご奉公は「お折伏」を目標に人々に接します。
 御教歌
「義は強くことやはらかに身を下る これぞ不軽の折伏としれ」
 私たちの目標です。言葉はやわらかく、丁重な姿勢で、仏法の「義」を貫きます。
 一万遍口唱会や班長スクールは来月の開催です。「来月だから」と安心しないでご披露を重ねましょう。その「ご披露」は、大勢の前でパッと話しただけでは伝わりませんし、誰も動き始めません。
 何度も話題に出し、顔と顔を合わせて、お互いに確認したりしなければご奉公にならず、菩薩の「お折伏」にはなりません。意欲的になれないのなら慈悲が足りないということです。もっと積極的に、意欲的になりましょう。
 先日、あるお役中さんとご信心の相続についてお話しました。お役中さんといえど、ご信心について全く子どもたちに話していない、思春期に拒絶されてからそのまま、解決の糸口が見つからない、今さらながら慌てている、困ってる、ということでした。その方に限りません。みなさんのご家庭はどうでしょう。全般的に信行相続の意識が以前より低いように感じます
 これもお折伏の弱さの一例です。本当の優しさではありません。問題の先送りです。ご信心が本物で、子どもを愛しているなら、何としてもご信心を伝えようと、毎朝毎晩考えて接するはずです。そうしないのは、信心がニセ物か、愛していないか、です。
 お付き合い程度にご奉公してるのでは困ります。それは「信心」ではありません。もっと純粋に、もっと真心で、もっと真剣に、正しいご信心の仕方、正しいご奉公の仕方について考え、実践していただきたい。
 その第一が「お折伏」です。難しいかもしれませんが、お折伏が出来るようになるのが目標です。お折伏は知識や知恵でするのではありません。信心でするものです。「何を知っているから言える」というものでもありません。「知らなくても言える」のです。「お寺に行きましょう」「させていただきましょう」「止めた方がいい」とまごころを込めて伝えてゆきます。あまり変化球は狙わない方がいい。
 真っ直ぐ、丁寧に、ご信心の腹で、御講願主を勧めるのも、導師役を勧めるのも、お伝えしてゆきましょう。
 最後に一つ。お看経について。とにかく、ご信心はお看経しかありません。突き詰めれば、お看経しかないのです。何が出来ていてもお看経ができていなければダメです。まず、お看経をさせていただくことです。お折伏ができるようになるのもお看経からです。お折伏ができないのは、お看経以外のことにばかり気が向いているからです。お看経が足りないのです。
 お折伏に躊躇する初心の方には、是非お助行前のお看経をお勧めしたいです。お助行もお折伏も、「自分がする」のではないのです。御宝前から振り返ってお助行先の方とお話しする時、自分では思いも寄らない「ご信心の言葉」が出てきます。これが、自力ではない、本当に有難いご奉公だと思います。どうか、今までとは違うお看経をして、ご奉公の尊さ、有難さを感じてください。
 ありがとうございます。


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