2015年3月15日日曜日

『心の闇を照らす』 妙深寺報 平成15(2003)年2月号

コレイア・悠時くんの、得度式が迫ってきています。

彼の、初御法門を勉強させていただいていて、自分の書いた文章がインターネットに載っているのを見つけました。

12年前、2003年の妙深寺報です。

ずっと、同じことを書いている、目指している、感じていると思い返しました。

『心の闇を照らす』
妙深寺報 平成15(2003)年2月号
http://www.butsuryushu.or.jp/jp/eyes/200302.html

三ツ沢の丘の上にある妙深寺で、雲の無い澄んだ朝に起きること。横浜港から昇った太陽が本堂の隅をオレンジ色に照らし、ススーッと壁をはって、目の前におられるお祖師さまの御顔を光り輝かせるのです。

 その瞬間、表現しがたい喜びと安堵感、緊張感が湧いてきます。まるで、暗闇の中で灯りを持った方に出会ったような、そんな感動を覚えるのです。

 時に人は、生きる気力を失うことがあります。人生に夢や希望を失い、自ら命を絶つ方もあります。欲望に身も心も支配されている人や深い嫌悪感に苛まれている人。迷い、疑い、恨み、妬み、怒りは、人間の心の中で際限なく広がり、気がつくと明日に希望も抱けない生き方に陥ります。

 多くの犯罪者は、心の中で徐々に広がる闇に飲み込まれた人です。物を貪り、酒に溺れ、淫欲に溺れてゆく人も同様です。光に満ちた現代社会で、満たされず、淋しさや悲しみを抱え、手探りで何かを求めて街角を彷徨う人々も、心の中で暗闇が広がり、一条の光りを求めて止まない人たちなのです。

 末法という娑婆世界では、実に多くの人々が、心に「闇」を抱えて生きています。普段、気づくことがなくても、「心の闇」は誰の心の中にもあり、探せば見つけることが出来るものです。

 「闇」は、日の光りが隠れることで生まれます。太陽が沈み、月も出ていない夜に、電気もライトも、火もなければ真っ暗になります。太陽が出ていても、洞窟の中には暗闇が存在します。停電やブレーカーが落ちた時など、突然の暗闇では慣れた家の中でさえ手探りしなければ歩けなくなります。

 暗闇は、その人を取り囲む世界を一変させてしまいます。不安になり怖くもなります。ですから、心の中に広がる暗闇は、その人の一生を狂わすことすらあるのです。 

 親にとって、子供は太陽です。その笑顔は、光り輝いて心の中に広がります。同じように、子供にとって両親は大きな太陽でしょう。無償の愛と申しますように、親の存在は、いくつになっても輝きを失うことはありません。

 だからこそ、子供を亡くされた方の苦悩は想像を絶します。また、親を亡くした子供の悲しみは計り知れません。生きる上での太陽を失うのですから、どれだけ大きな暗闇が心に生まれることでしょう。

 私にとっても、父は大きな太陽のような存在でした。いつも空にある、明日になればまた昇る、と信じて疑わずに甘えておりました。父を失ってはじめて、心の中から大きな光りが失われたことに気づきました。心に大きな影、大きな闇が生まれておりました。

 愛する人も、暖かい光りを降り注いでくれます。しかし、別離が訪れた時、その存在が大きければ大きいほど、心の中に大きな影を落とし、闇を生み出します。

 信頼できる友人や仕事仲間など人生の中では光りを与えてくれる人がいるものです。しかし、そうした大切な人から、騙され、裏切られた時、人生は暗転し、猜疑心が住み着きます。

 健康を失うことも、太陽を失うことと同じです。病気や事故等もまた心に闇を生み出します。本人も家族も、病と闘いながら、同時に心に生まれた闇とも戦っていることになります。苦しみは二倍にも三倍にもなるのです。

 人知れず苦しんでいる人もあります。明るく笑い、楽しんでいる裏側に、深い闇が見え隠れします。数時間で切れてしまうことを知りながら、小さな灯りを探し、迷い続けて走り回る人もおります。

 無常の娑婆世界では、どれだけ大切な人でも別れる時が参ります。送る側、送られる側の別はあるとしても、子供にも、親にも別れる時が参ります。愛する人でも同様です。悪世末法三毒強盛の凡夫が集う世界ですから、気の合う仲間だけに囲まれて生きるという訳にもいきません。必ず恨みや妬みに出遭うものです。さらに、永遠に健康な人もおりません。自分も、家族も、同じように身体は老い、衰え病苦も訪れるものなのです。欲望に駆られて走り回る人も哀れです。実に、暗闇の中でもがいている人がたくさんいるのです。

 開導聖人は御教歌に、

「吾が祖師の御名は日蓮世の人の
   心の闇を照らす妙法」

とお示しになられております。

 お祖師さまは、永遠に失うことのない真実の灯火を手に、苦しみ迷う人々の深い暗闇を照らされました。私たちの永遠のお手本です。その光りは、上行所伝の御題目の光りであり、妙法の光りです。

「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人、世間に行じて能く衆生の闇を滅し」

とは法華経如来神力品に示された御仏の言であります。太陽や月の光りが等しく暗闇を照らしだすように、この菩薩は末法濁世に出現し、人々の姿を求めて心の闇、迷いや苦しみを取り除く、と説かれています。まさに、お祖師さまの姿、菩薩のご奉公の姿を示されております。

 社会に溢れる光り、家の灯り、電柱の灯り、車のライトなども、目に見えた世界を照らすことは出来ても、心の闇には届きません。心の闇に届く真実の光りは妙法の御題目のみであります。

 菩薩とは、苦悩する人々の心の闇を照らします。泥水に咲く白蓮のように、濁世に染まることなく人々の心の闇を知り、同悲同苦し、暖かい光りを与えます。御題目をお唱えする中で、心に光が差してくるのを感じます。その光が心の中で広がっていくのを感じます。

 御題目を握りしめて、苦しんでいる人の為の太陽になる。太陽になれるように、真実の慈悲の心、本物のご信心を培わなければなりません。中途半端はお祖師さまが最も嫌われる所です。有名無実は開導聖人が最も戒められた所です。

 心の闇を照らす菩薩には、在家、出家の隔てもありません。地位や格好、知識があっても何の意味も無いのです。本物を目指すご信心こそ大事です。権力があって権威が無い、名前があって実が無いという末法ですが、口先や見せかけのご奉公ではなく、お祖師さまの御本意に叶うご奉公をさせて頂きましょう。お寺の大小も、格式も、歴史も大きな意味は持ちません。ただ、そこに、その場所に、何人、人々の心の闇を照らそうと菩薩の生き方を心掛ける人がいるかです。

 人知れず苦しんでいる人がおります。心の闇を照らしてあげずにはいられません。本物の志と妙法の光。菩薩の誓いです。

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