御教歌 平成二十七年三月二十五日 門祖総講 山田朝陽のブラジル出立、餞別の御法門
まけん気と根気と慈悲のある人は
みのり弘むる器なりけり
佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌で御座います。
ご信心をする私たちお互いは、常に自分の心の悪い癖と向き合い、足りない所は心を磨いて御法の教えに沿った、目標とする人間に近づけるように努力を怠らないようにしなければなりません。
生きるために最も大事なポイントをお教えくださる御教歌、三つの定規を当てて改良することの大事をお教えの御教歌です。
御教歌を再拝いたします。「まけん気と根気と慈悲のある人は みのり弘むる器なりけり」
「みのり弘むる器」とは、ご弘通ご奉公を担う、み仏が欲するような人、菩薩を指します。
「まけん気と根気と慈悲」仏教徒であったなら、こういう3つの資質を、バランス良く備えた人になれるように、ここを目標にして精進しなければいけません。
一人一人の人間性、人間としての器、ご信者さんとしての器を今一度考えていただきたい。
ご信心修行は、単なる現世利益を求めるものに留まるのではなく、人間性を整え人格を磨くことを見据えたものでなくてはいけません。
つくづく、仏教は「人間学」であります。
お祖師さまの御妙判に。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。」
困った時に手を合わせ、お題目を唱えてお計らいをいただくのも大事ではありますが、お見守りお導きをいただけるご信心だとわかった後には、「みのり弘むる器」を目標にして、自分を磨いていくことが大事。
とことん、仏教は、私たちの所作振るまい、生き様、生き方を、教えて下さっているのです。
そこが変わらないと、そこが何とかならないと、その先もなんともならないのです。
自分の性格を鍛え、真ん中に立ち、真ん中で踏みとどまり、そこで鍛えておく。
「まけん気と根気と慈悲」が、どんなバランスで備わっているでしょうか?
負けん気だけ強くて、短気ですぐに途中で投げ出してしまう。
じっくりやるけれど、マイペース。
負けん気も根気もあるけれど、慈悲がない、自分さえ良ければいいとい思ってる。
これではいけません。
開導聖人の御指南をいただきます。
まけん気とは。本当の勝ちとは。
「まけることきらひなればとくをつめよ」物学び抄 4・183
「常に人に勝れんとおもふ心をやめて、徳の我に足らざる所を憂ひ、徳を我身に積みて、其の徳を以て人に勝つときは、是れを至極の勝ちと云ふ。まけることきらひなれば、とくをつめよ」4・183
根気とは。
「千里の道も一歩より始る怠らざれば終に行。日つぎ十里の旅も休息長ければ二日、三日、乃至行かずして帰る。玉とならば、みがきて光らぬ玉もなし。長きによって退屈を生ずることなかれ。」本門佛立霊応記 16・257
慈悲とは。
「火に入るものを助けんとするには共に火に入り、水におぼるゝ者を救はんとするには共に水に入りて救ふなり。信者は追々信心口唱して法門をも一句二句聞おぼえて、己が教化を蒙りたる仏の御慈悲の事を思ひ出でゝ、われもかやうにして謗法の火の中を逃れ出たり、かやうにして御利益は蒙りたりと人にも語り、力に応じて慈悲をさきとして深切に人にさとし、水の中、火の中を出さんと心がけたるが、男子も女子も随力演説と云ふ経文の如く也。」
別の御教歌に
「こころせよ 自屈上慢二乗心 これは信者の中のかすなり」
覚えておきなさい。自屈・上慢・二乗心があったら、ご信心をしていても信者の中のカスだと仰せです。
本門佛立宗のご信心が、素晴らしいものであったとしても、この三つの悪い癖のある人は、「カス」、つまり良い所をとってしまった残り物、尊い宗旨集団の底に溜まった不純物だと仰っています。
自屈とは、芯がなくてすぐに折れてしまうことです。この人は「どうせ、いいんです、別に…」が口癖です。
上慢とは、調子に乗りやすくて奢っている。慢心している人です。丁寧にしていても、実は人を見下している。
二乗心とは、自分の殻に閉じこもっている人、苦しんでいる人をほっておいて、自分さえ良ければいいという人。
結局、この3つが「我の正体」なのです。
「我」とは、「自屈」と「上慢」と「二乗心」のことで、この人は信心しているように見えて、していないのと同じ、いやしていても我を張っているのだから、もっと悪いということになってしまうのです。法の心を殺してしまう。罪障が深いのです。
悪く癖の3つがあると、御法門もお折伏も届きません。結局、心を磨けない。それでは勿体無いのです。
これを止めて、「まけん気と根気と慈悲」のある人を目指しましょう。
私たちは、三毒強盛の凡夫ですが、唯一ありがたいのは、御宝前の前でお題目を唱え、偏りのある心を改めて、「みのり弘むる器」になろうとしていることです。
「まけん気と根気と慈悲」が、バランス良く整って、いつも明るく朗らかで、一生懸命、一人一人が、そこに近づけるようにご奉公させていただくしかないのです。
特に、本当は、慈悲がなければ人の上に立つことも出来ません。リーダーになれないのです。
「慈悲がなければ人をつかふ事かたし」一要万蔵 8・169
「慈悲心を起す功徳によりて我身の罪障を滅し、所願を成就す。諸天昼夜に此の人を衛護す。」開化要談(9)・13・226
「御宝前の前で、謙虚に罪障消滅を祈って、ご信者さん同士互いに敬い合って、慈悲心を以てご奉公させていただけば、現世未来世の願いも必ず成就して、幸せになること疑いない。」と御指南いただいています。
確かに、変な優しさだけでは、ご奉公の成就はありませんよね。優しさは、時に自分のため、自己満足のため、保身のためになってしまいます。
本当に優しければ、慈悲があれば、嫌われても、伝えたくなるはずから。
本当の優しさ、本当の慈悲は、どこか負けん気、根気と、相通じるのです。
「佛法と申は是にて候ぞ。一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ。」崇峻天皇御書
この御文を拝見して分かるとおり、私たちの目指すべき人は、妙法蓮華経に説き明かされた、不軽菩薩、その人のことを指します。
これは、今まで紹介してきた宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」のモデル、「デクノボー」のモデルでもあります。
それこそ、負けん気と根気と慈悲の人です。
どうか、自分の悪い癖と向き合って、悪い癖を見つけて、改良させていただきましょう。
「みのり弘むる器」となれるように、気張って精進させていただきましょう。
信心改良、精進の大事をお教えの御教歌です。
故に、御教歌に、「まけん気と根気と慈悲のある人は みのり弘むる器なりけり」
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