2023年6月16日金曜日

御教歌「聞いた通りするが信心 我が思ふ 様にするのは信心でなし」


朝参詣、統一口唱会から少し時間があるので本山大法要、米国出張前後の御法門をアップしてゆきます。

御教歌「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」

4月の住職御講の御法門です。

命を輝かす。
生きる力をいただく。
積もった罪障を振り払う。
生きがいを見つける。
生きて甲斐のある道を見つける。
生きて甲斐ある今日を生きる。
やるべきことを学ぶ。
やらなくていいことを捨てる。

これが、信心です。信心で教えていただくことです。ご信心で得られることです。

何をしていいか分からない。
どうしていいか分からない。
つまらないことに夢中になる。
くだらないことをして日々を送る。
欲が強く、大きくなっていく。
嫉妬が強く、大きくなっていく。
イジワルをする。
いい人の邪魔をする。
悪い人を友だちにする。
せっかく人間に生まれてきたのに甲斐がない。
もったいない、申し訳ない、仕方ない。

これが信心ではない、信心していない人の心。信心していない人の人生。
しかし、むしろこれが普通、信心していない末法の凡夫の姿です。
さて、「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」とお示しです。

聞いた通りする。
悪いことを聞いて悪いことをするのではない。
いいことを聞いて、そのとおりにする。それが信心。

まず、ご信心は、末法悪世の中で、正しい教えに出会えたということです。
この、偽りだらけの、表と裏の、ずるくて、こわくて、いやらしい、そんな話や教えや誘惑や紹介に溢れた末法という人間世界で、清らかに澄んだ、どこまでも円満で、偏りのない因果を説く、み仏の教えにお出会いできたということです。

世間とは違う。
世間では疑い深い方が騙されない。用心深い。賢い。そうかもしれない。
素直にハイハイと受け止めていると「バカじゃない?」「大丈夫?」と言われる。
それでもいい。
でも、ご信心は違う。

疑うことなく、実践することがご信心。
素直正直が大事。
素直正直を大切にする。
だから、修行になる。だから功徳になる。罪障が消滅する。現証が顕れる。

一周回って、せっかくご信心に出会えたのに、そうでなかったとしたら。
つまり、せっかくご信心に出会えたのに、せっかく御法門をお聞きしているのに、自分の思うようにしてる、自分の考えを優先している、交えてる、いいとこだけいただいて、気に入らないところは外して、チョイチョイずるいことをしていたら、どうなるか。
ご信心じゃない、ということです。
功徳はない、罪障消滅はない、御利益はない、ということです。

「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」

ご信心は伝言ゲーム。
仏教そのものが、伝言ゲーム。
師匠から弟子、弟子から弟子、そして多くのご信者さんへ。
ところが、これが最も難しい。

要点がズレる。
勝手に解釈する。
謗法が混ざる。謗法になる。
延々とこうしたことを繰り返してきたんです。だから「宗派」が生まれた。
ご信心と思ってやっていることが、ご信心でなくなる。
功徳になると思ってやっていることが功徳にならない。
本人はイキがってやってる。いい気になってやってる。しかし、間違い。大間違い。
これではどうしようもない。
どうしようもないというか、

「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」

長松家の霊簿というものがあります。
門外不出と教えていただいています。
なぜか。
本門佛立講、草創以来のお弟子方、役中、ご信者方のお名前、法号がある。
開導聖人の直筆です。
しかし、そのお名前、法号の上に、「信」と「謗」という記しがある。
これはお見せできない、お見せしないようにしなさい。長松家、代々そのように教えていただいています。
でも、開導聖人の目からご覧になって、同じようにご信心している、ご奉公している、お弟子さんやご信者さんが、聞いたとおりにしているのか、あくまで我流で、習い損じ、勉強不足、慢心していると思っておられたということ。
これは、事実として、示されていること、です。

妙深寺にもなかなか外にお出しできないものがあります。
先住と、佛立第十五世講有 日晨上人との、ご面談、お伺いした際のテープです。
別に、先住が盗撮なさったものではありません。
日晨上人にも録音することをお伝えした上で、お話をなさってる。

妙深寺は、初代日博上人のご遷化後、京都から20代のご住職をお迎えしました。
先住のご苦労は並大抵ではありませんでしたし、スーパーカリスマ御導師のご遷化後に当たるわけですからお弟子方も大混乱、ご信者さんだって大変だったことと思います。

先住は住職着任後の12年間、日博上人の御13回忌まで、現在の大和法深寺の本堂を建立されるまでの期間、ほぼ毎月のように日晨上人の元へと伺い、ご指導を仰いだ。
それは、それは、信廣門末のお弟子方が羨むほど、詳細、事細かく丁寧なものでした。

本当に細かく、親しく、丁寧に、日晨上人は先住にご指導されている。
そして、先住も、聞いている私たちがヒヤヒヤするくらい、ズケズケとお話している。

神格化、個人崇拝。原始仏教、小乗仏教がたどった経緯ではないですが、時代とともにそういうことがなされていくのですが、本当に身近な師匠の御意、本心をお聞きできる。
ところが「外にお出しできない」というのは、現在のご弘通の在り方、仕方が大きく外れてしまっているかもしれないから。

「お師匠さまをお敬いしましょう」「知恩報恩」「忘恩の徒にならないために」と言いながら、お師匠さまから見れば「何やってるんだ」「とんでもない」と叱られる。
そんなことが、多いことも、知らなければ、ご信心にならないのです。

「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」

自分の思っているようにしたら、信心じゃない。
でも、古法華、実際には御導師でも、住職でも、教務でも、役中さんでも、自分考え、自分の発想、自分の考えでやっている、話している、という面があるならば、改良しなければならない。

最後の最後、寂光の門前で声を枯らすようなことになる。
「受付のなき寂光の裏門で 参拝願ふ声をからすな」

「をしへても習はぬ弟子は弟子のとが 教へぬときは師の失ぞかし」

「慢心のおこりはじめや師を捨て おのれ師匠にならんとぞする」

「かしこでも いふこと聞かぬ子は不孝 御法の親のをしへそむくな」

慢心せず、素直正直に御法門を実践する。
教えのとおり、教えていただいたとおりにすれば、必ず現証が顕れる。それが信心。

逆に、自分考えを優先していては信心にならない。修行にならない。習い損じです。

素直正直にご信心させていただきましょう。
そして、知らずはからず、気づかないうちに慢心、習い損じをしていて、自分も御利益がいただけないばかりが、周りにも迷惑をかける、御法に傷をつけて、御利益を止めるようなことのないように、慢心、謗法を侵さないように、精進することが大事大切とお示しくださいました、御教歌でございます。

されば御教歌に「聞いた通りするが信心我が思ふ 様にするのは信心でなし」

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