2023年6月16日金曜日

御教歌「題目は 野に山にも唱へおけ 山谷曠野 即是道場」

御教歌「題目は野にも山にも唱へおけ 山谷曠野即是道場」

もっと御題目を信じて、もっともっと御題目の力を信じて、山でも谷でも原っぱでも、歩いていても、走っていても、人と会っても、一人の時でも、寝ても覚めても、御題目をお唱えして、現証の御利益を体験しなさい。そうしていたら、必ず現証が顕れる。

中途半端ではもったいない。もっと御題目を、どこにいても誰といても、お唱えして、御題目の凄さを感得しなさい。

御題目を今いるその場所に刻み込み、植え込んで、永遠の種まきに努めることが本物の教務、本物のご信者であるとお示しの御教歌です。

「題目は野にも山にも唱へおけ 山谷曠野即是道場」

御題目の大事、御題目口唱の大事、どこにいても、誰といても、御題目を肌身離さず、唱え唱えて、唱え重ねて、御本意に叶う、御仏、お祖師さまのお心に叶う。現証の御利益をいただく。

皆さまもよくご存知のとおり、南無妙法蓮華経、この御題目の御力、その御力があるからこそ、行住坐臥、どこにいても、誰といても、御題目を肌身離さず、お唱えしなさい。それが久遠本仏の教え、お祖師さまの御法門。
ここが分かってこそ、本門佛立宗の教えが分かる、ご信心してる、ということになる。

法華経。八万四千あるお経の中で王様と呼ばれるほど尊いお経です。

植木雅俊先生の御本にも出てきますが、三千年近い歴史の中で、法華経も長い年月を経て二十八品にまとめられたことが分かっています。

歴史上、これまで何種類かの法華経の翻訳が伝わっています。
竺(じく)法護の『正法華経』、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』、闍那崛多・ジャナクッタと達摩笈多・ダルマギュウタ『添品妙法蓮華経』の3つがある。
それぞれ大同小異というか、この品があるとかないとか、この章が前に行ったり、後にあるとか、そういうことがあります。

しかし、世界中、信仰者であろうと、学者であろうと、ほぼ、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』が最も正確で、最も深く、法華経の真理、仏陀の真意を表していると考えられています。

当然ながら、お祖師さま・日蓮聖人は鳩摩羅什の法華経を信仰し、「法華経の文字は六万九千三百八十四字一字は一仏なり」『御衣並単衣御書』とまで御妙判されています。

このようにして、私たちのいただいている法華経、お経の中の王様の成り立ち、ご信心での受け止め方を知った上で、法華経をいただく上で大切なことをお話させていただく。

ほぼ、近年の研究で明らかになっていることが、もっとも古い法華経の原典は、嘱累品第二十二が締めくくりだったということです。

なぜ本門八品なのか、ということにも関係しますが、ここでは申しません。

お経の中の王様、み仏のご生涯のクライマックス中のクライマックスが、如来神力品、そして嘱累品です。

嘱累品というのは、ほぼ御法門を説き終わって、説き尽くして、お役を委嘱伝承する、辞令下付式みたいなところですから、とても短い。拝読しても三分ほどで読めます。

ですから、法華経の中で、いや仏教の中で、最も大切な、クライマックス中のスーパークライマックスこそが、その前の「如来神力品」になる。

そこに、何があるか、何が説かれているか、ということ。

ご存知のとおり、法華経というのは、すでに御仏が入滅することを前提にして、入滅後の人びとが迷わないように、入滅後の人たちを救うために説かれています。
「在世」「滅後」「滅後末法」の人びと、特に滅後末法の人びとのための教え。その御法門のクライマックス。

簡単に、端的に申し上げますと、仏さまは亡くなった後、どこへ行くのですか?ご入滅した後、仏さまはどこにいるのですか?どこに行けばお会いできるのですか?どうしたらいいのですか?ということに答える内容が、如来神力品なのです。

御教歌下の句の「山谷曠野即是道場」とは、法華経如来神力品 第二十一の御文。妙講一座にあります。

妙講一座を見てください。御講で持っていなかったら買いましょう。とても大切です。

「是(こ)の故に汝等、如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし。
 所在の国土に、若しは受持・読誦し解説・書写し、説の如く修行し、若しは経巻所住の処あらん。
 若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。」如来神力品 第二十一 / 勧奨付嘱

「所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう。」釈付嘱意
御仏は、ご入滅後、どこにでもおられる、と説かれた。

さらに簡潔に言えば、
み仏は、私が入滅、つまり目の前からいなくなっても、私の全身はここにいます。
法華経の御法門、言葉の中にいると予言された。

どんな時代であろうとも、私は言葉と共にある。その命は法華経の御題目と共にある。

お墓はいらない。ここにいる。
御題目、御本尊がある場所であれば、それが公園であろうと、森の中であろうと、林の中であろうと、木の下であろうと、お寺であろうと、自宅であろうと、学校であろうと、山や、谷や、野原や、どこであろうとも、あなたが法華経の御題目をお唱えしたならば、それこそが本門の戒壇であり、それこそが私が覚りを開いた聖地であり、教えを説いた聖地であり、涅槃を迎えた聖地となるのである。

私は、そこにいる。

仏教のクライマックスは、「仏教の聖地は他でもない。法華経の御法門を受持し、実践する人がいる場所こそ、地球上のどこであろうと、聖地となる。聖地とせよ。」というものだったのです。

もっと御題目を信じて、もっともっと御題目の力を信じて、山でも谷でも原っぱでも、歩いていても、走っていても、人と会っても、一人の時でも、寝ても覚めても、御題目をお唱えして、現証の御利益を体験しなさい。そうしていたら、必ず現証が顕れる。

中途半端ではもったいない。もっと御題目を、どこにいても誰といても、お唱えして、御題目の凄さを感得しなさい。

この度のハワイ別院の団参には第十支庁がご奉公くださいました。
第十支庁とは九州全域のお寺を指します。そちらの御導師、ご住職、ご信者の方々が、ハワイまでお参りくださいました。
五月二十八日、ハワイ別院で三祖会。三宅日善御導師がご唱導。御法門がこちら。

九州は戦前小倉(不軽寺)から宮川日厚上人は九州全域にご弘通されたことで始まりました。
最晩年、その宮川日厚上人は九州全域へのお助行に出られたそうです。その随行をなさったのが、大長薫寺のご弘通をなさった髙須日薫上人だったとのことです。
小倉から大分、宮崎、鹿児島、熊本へと、お助行される。すでに足も弱っている中でのご奉公です。
その時、宮川日厚上人は杖をついておられた。

足の一歩一歩、杖のヒトツキ、ヒトツキ、御題目を埋め込んでいる。入れ込んでいる。
そう仰せでした。
一遍一遍、その土地に、植えている。そして、事実、その場所に、どんどんお寺が。
一門の寺院は十二ヵ寺に及ぶ。
一昨年の髙須日薫上人 御二十七回忌にあたって、四年間の報恩ご奉公で、分班達成が六十二組、創組達成が一組。

必ず現証の御利益が現れる。
行住坐臥の口唱こそ大切。それこそが幸せの種まきとなる。

さて、ほんの数分で拝読できる嘱累品。久遠本仏から上行菩薩、お祖師さまへの嘱累の模様が表されています。

「右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したまわく、
 我無量百千万億阿僧祇劫に於て、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等応当に一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし。」
「是の如く三たび諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でて」
「広く此の法を宣べて一切衆生をして普く聞知することを得せしむべし。」
「汝等若し能く是の如くせば、則ち為れ已に諸仏の恩を報ずるなり。
「唯然(ゆいねん)、世尊、願わくは慮有(うらおもいいま)さざれ」

もっと御題目を信じて、もっともっと御題目の力を信じて、山でも谷でも原っぱでも、歩いていても、走っていても、人と会っても、一人の時でも、寝ても覚めても、御題目をお唱えして、現証の御利益を体験しなさい。そうしていたら、必ず現証が顕れる。

中途半端ではもったいない。もっと御題目を、どこにいても誰といても、お唱えして、御題目の凄さを感得しなさい。

御題目を今いるその場所に刻み込み、植え込んで、永遠の種まきに努めることが本物の教務、本物のご信者であるとお示しの御教歌です。

故に御教歌に。「題目は野にも山にも唱へおけ 山谷曠野即是道場」

参考
「爾時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は是の如く無量無辺不可思議なり。若し我是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に此の経の功徳を説かんに、猶お尽くすこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。」

ちなみに、念仏でもそういうことを言いますが(寒念仏)、経典を探しても出典はありません。それを開導聖人はこの御教歌でお折伏されています。

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