2014年6月27日金曜日

サソリ

いよいよ、明日と明後日、本年度の開導会を奉修させていただきます。

門祖会では、観測史上最大の大雪を乗り越えて奉修させていただきました。

今週末の天気予報も、どんより、シトシト、ザーザー、チラチラ、という、実にビミョーなもので、さらなる試練を与えられているようです。

大本寺 乗泉寺の末寺である妙深寺が、関西の大本寺 清風寺のご住職、さらに宗務副総長の西村御導師をお迎えして奉修させていただくのは、分に過ぎたこと(汗)。

しかし、妙深寺から清風寺さまの開筵式にお参詣させていただいたこのタイミングで、ぜひご唱導いただきたいとお願いして参りました。

それでも、分に過ぎましたー。

三回のお会式を一回に行うくらいの気持ちで、みんな緊張しておりますが、何とか晴天のお計らいをいただいて、ご奉公させていただきたいと思います。

とにかく、しっかりと準備ご奉公に気張ります。

さて、最近、ずっと思っていたのですが、インドで、サソリと出会ったのです。

サソリ=蠍です。

あの、蠍です。

刺されたら、怖い蠍です。

その蠍と、仏陀のご遺骨が発見されたカピラヴァストゥの城の上で、出会いました。

もう、干からびて、ひっくり返っていたのですが、なぜか最近、彼を思い出して仕方ない。

蠍(さそり)のお話。

『銀河鉄道の夜』に出てくる、さそり。

このお話は、まったく、怖いイメージの蠍ではないのです。

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「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いいました。

「蝎(さそり)の火だな。」カムパネルラが又また地図と首っ引きして答えました。

「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」

「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。

「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」

「蝎って、虫だろう。」

「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」

「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(ささ)れると死ぬって先生が云ったよ。」

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(み)つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺おぼれはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉くれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。

って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(お)っしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」

 ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの腕(うで)のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
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その後、この物語の最後に、この時の蠍のお話が出てきます。

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「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧(わ)くようにふうと息をしながら云いました。

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「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という言葉は、蠍のお話から来ているのですね。

自分の命は、自分で使い方が決められます。

幸せが不安を生み、満たされて足りなくなり、楽しんで孤独になる。

人生って、そういうものです。

これを、それでいいと思うか、それは虚しいと思うか。

だからそのままでいいと思うか、そのサイクルから抜けようと思うか。

幸せが不安を生み、満たされて足りなくなり、楽しんで孤独になる。

そんなことの無い、そういうサイクルではない、ただの挺身でも、献身でも、命を捧げるとか、そういう重々しいことではなくて、嬉しくて、楽しくて、疲れなくて、たまらなく満たされた状態が、ご奉公の先の先にあります。

いや、すぐ近くにあるかな。

ご信心を、本気ですると、ある。

因の如来の中にある境地。

開導聖人の御教句。

「信心を ほんまにすると やめられぬ」

これは、幸せが不安を生み、満たされて足りなくなり、楽しんで孤独になる人生の矛盾から、抜け出し、ほんたうの、しあわせに、気づき、生きれるからです。

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