2010年6月17日木曜日

今日のお折伏 お助行はどうだ

6時半から朝参詣、10時から開導総講併せて婦人会教養会、昼間は原稿を書いて過ごして19時からは夜の住職御講。

今日は、一日中お助行について御法門をさせていただき、お助行について書かせていただいていたように思う。今月の教区御講は、残すところ一席となったが、ずっとお助行について拝見してきた。

とにかく、佛立信心の醍醐味は、お助行。お助行なくして御講なし。お助行で信心を鍛え、御講で信心を整える。それしかない。

そのお助行は、ご利益がいただけるという「確証」があるとか、「経験が豊富」だとか、そんなものは関係ない。とにかく、この本門の大法、上行所伝の御題目をいただいている以上、動くしかない。出るしかない。出れば、現証の御利益がある。

それを、つべこべ言って、動かずに、部屋の隅で本をめくっていても、何も起こらない。それは、佛立ではない、人助けではない、菩薩行ではない、不軽行ではない。

確証なし。経験無し。とんでもない問題、はじまっていらいの問題、大変な難題を抱えた人に出会う。その話を聞く。経験も確証もない。そこで、「えい、御題目しかない」と思って動くのだ。動くから、現証の御利益が顕れる。時に、お助行をしている自分自身が驚いてしまう。「なるほど、こうなるのか」と。その積み重ねが、末法のご奉公となる。

私は、そうだったし、「末法のご弘通、ここにあり」と開導聖人もお示しくださっている。

経験じゃない。動くこと。それしかない。

悪霊が憑いたという問題、精神的な疾患のこと、夫婦間の問題、脳挫傷などの事故、癌などの病気など、最近は経験豊富なように言われるが、そうではない。すべて、最初は、ドキドキ、ハラハラの中のご奉公だった。しかし、動けば動くほど、現証の御利益をいただいて、自分で驚きながら、今日までご奉公させていただいてきた。

今でこそ、「おくりびと」などと書いているが、本山から帰山したての頃は、何をどうして良いのかも分からなかった。先輩教務やご信者方は、本当に素晴らしい「おくりびと」だったが、一人きりになってしまった枕経での出来事は、今でも忘れられないご奉公になった。そこで、大きな現証の御利益を感得させていただいた。今日の御法門で二回もお話したから、もう疲れて書く気力がないが(涙)。

動くこと。

清顕がまだ隆二だった頃。お祖父さまの行方不明の連絡が入った0時前。やはり、その時もお寺を飛び出して清顕の家に向かった。県下の警察にも病院にも連絡をして見つからない高齢のお祖父さま。お助行に向かうのに、何の確証も経験もあるわけがない。とにかく、「行く」ということしかない。

行って、お看経をさせていただく。見つかるか、見つからないか、それは分からない。ただ、御法さまにお縋りするだけ。そして、お縋りした涙のお看経の後、その直後、あり得ない妙不可思議なタイミングで、お祖父さまは見つかった。見つけたのは、一緒にお看経した隆二君だった。隆二君は、お助行直後にフラフラと歩き出して、お祖父ちゃんを見つけたのだった。今でも、誰も分からない、不思議な行動と出来事。御法さまのお力としか思えない。そして、隆二君は、青山学院大学を卒業する前に出家得度を決めて、お寺に入った。

お助行。お助行に行く前に、確証のある者、経験に裏打ちされて自信に満ちている者もいない。いたとしても、ほんの一握りだ。そんな、下手が名人の真似をするようなことはしなくていい。最初から、そんなこと「考えていても」、意味がないと思う。

これまでのご奉公経験の中で、確信を持って言えることは、ただ一つ。動くこと。御法さまを信じて、御題目をいただいている私たちが、とにかく、動くことしかない。動くから、出る。現証が出る。間違っていたら、間違っているなりに、出る。間違っているか、間違っていないか、など、苦悩する人を前にして、本を開くな、考え込むな。御題目だけを信じて、手にして、出て行け。
お助行はしているのか。そのお助行は、どんなお助行か。お助行には、誰と行っているか。誰を連れているか。

お助行に対してのご奉公の仕方、考え方を改めよ。お助行ができていない教務、役中など、話にならない。

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