2017年2月12日日曜日

御講が命

ちょうど1週間後の週末は妙深寺の門祖会。


今日は無事に2席の教区御講を奉修させていただきました。


午前と午後。


開導聖人のご生誕200年にあたり、その出現や存在価値を思えば思うおほど「御講」が生きた仏教の生命であることを痛感します。


御講が無ければお葬式や法事だけする仏教、あるいはそれに毛の生えたようなお寺と変わりなくなってしまいます。


仏教を骨抜きにした江戸時代の寺請制、檀家制度というのは、信長や秀吉の時代から伏線が敷かれていました。


いわゆる「太閤の検地」は寺院の持つ伝統的な軍事力や経済的な実力を骨抜きにするものでしたし、大寺院の造営は大義を立てて有力大名の経済力の低下を主眼にしていました。


大阪に取って代わった徳川幕府は諸寺院法度で各宗派に本末関係の構築を促し、一見庇護しているように見せて本山を抑えるだけで日本の隅々にまで宗教統治を行き渡らせることを可能にしました。


どちらも、権力者にとって常に目の上のたんこぶである宗教勢力を制御するための政策でした。


実際、巨大な宗派は東西に分断、本末関係から外れた小さな教団は異端扱いして厳しい弾圧が加えられました。


幕府は僧侶の宗学研鑽を奨励して政治から遠ざけ、一方で寺請・宗旨人別帳による檀家制度を構築して、結果的に僧侶の生活を保障しました。


部派仏教の成立と民衆からの乖離を生み出したのと同じように、各宗派は重箱の隅を指でなぞるような学術的議論に終始します。


本山に集うのは宗学者か宗門行政の政治家、行政官のような僧侶のみとなり、宗教的情熱を奪われた末端の僧侶たちは制度下に安閑とするしかなくなりました。


いつしか仏教は衆生救済という本来の生命を奪われてしまったのでした。


「デモ坊主」「蛸坊主」とは江戸時代に生まれました。


特に「蛸坊主」というのは当時から妻帯を宗是としていた世襲寺院の子どもを揶揄した言葉です。


生活してゆくことすら厳しい時代に、生まれた時から特権階級化した僧侶になることを約束された子どもは、生まれた時から毛のない蛸と同じというわけです。


自戒をこめて明記しておかなければなりません。


国教的な立場にありながら堕落と軽蔑が続いた江戸時代。


巨大な権力の下、時に殊勝な僧侶が出ても一過性のことで、苦悩する民衆は呪術信仰に走ったりしていました。


仏教を軽んじ、僧侶を憎み、日本国の礎は神道によるという思想、しかもエクストリームな思想が沸々と醸成され、幕末となって一気に沸騰します。


明治維新後に起きた狂乱の廃仏棄釈は、仏教側にも非があったことになります。


ここに登場したのが幕末維新の仏教改革者・長松清風、佛立開導日扇聖人でした。


生きた仏教を受け継いで。


昨夜は渋谷オーチャードホールで高見沢さんと西本智実さんのコンサートに伺いました。


もう言葉がないです。


ロックというか、エフェクターを通したエレキギターの音色が、クラシックのオーケストラと融合し、お互いを殺さず、邪魔せずに、さらに迫ってくるような。


言葉には出来ません。


楽屋に伺って感謝をお伝えして失礼しました。


ロックとクラシック。


タカミーと西本智実さん。


クィーンを超えてました。


来月は大阪でコンサートがあるとのこと。


今日も教区御講が2席!


フラフラです。

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