これまでの生き方は、少し贅沢でしたね。これまでの私たちは、少し甘かったのですね。
真実、真実、と言いながら、甘えていたし、誤魔化していたし、流されていたし、あきらめていた。それでは、もう、いけないのですね。
願いは誓いと共に。
もし、原発事故の被害を最小限に止めていただきたいと願うとしたら、私はなにを誓うでしょう。
たくさんの、未来を担う子どもたちが、圧倒的に被害を受ける災害を、このまま復旧活動が成功し、東日本が、少なくとも人々が安心して暮らせる美しい地域としてあり続けるようにと願う時、その願いと共に誓うのは、今までの甘えや偽り、迂闊さを改めて、恥じて、これからの真剣な生き方、真剣なご弘通ご奉公を誓わなければなりません。
我が門下を見てみても、「無智宗」というよりは十四誹謗の中の「浅識」に近い思考停止があります。これは改めなければなりません。
私も、私自身がどこに、そして、どこまで行くのか、まだ、釈然と分からない部分があります。
しかし、日本国の国難とも言うべき事態にあたり、そこに暮らす日本人の多くが苦しみや痛みの中にある今、それを見据えて、中途半端な生き方を改めなければならないと考えています、そして、さらに過酷な中に身を投じ、佛立らしくあるために、為すべきことを為せるように、ご宝前にお誓いしたく思います。
どれだけ愚かと言われても、たった一人でいい。たった一人が分かってくれていたら。偽りや駆け引きや強がりや権力闘争が末法の様相だろうと、身はそこにあっても心はそこにいません。次元が違う。とにかく、為すべきことを為してゆくしかありません。
世界中の人が分かってくれなくでも、たった一人が分かってくれていたらいいことってありますよね。
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