2016年12月3日土曜日

眩しい海

1日の夜に沖縄へ入り、先ほど羽田まで戻りました。


恩ある方の突然の訃報に驚き、1日、2日、3日の会議などをお任せして沖縄まで行かせていただきました。


本当に、ありがとうございました。


30日の正午ごろ、先輩から知らせを受けました。


電話をしながら涙が溢れました。


直後の13時から大切な面談があり、少しお待たせしてしまいましたが何とかご奉公させていただきました。


妙深寺の本堂でその子のために必死に御題目をお唱えしながら、同時にその方のことも想い浮かび、様々なことが去来するのを振り払うように、一生懸命にご宝前に向かい、お看経させていただきました。


身寄りがなく、どうなるか分からないということでしたので、すぐに私が行かせていただきたいとお伝えしました。


お一人でお亡くなりになったとのことで、警察による検死もあり、自分がさせていただかなければならないと思いました。


2日間、沖縄を走り回り、いま、ご遺骨を抱きながら、妙深寺まで無事に戻って参りました。


先輩も駆けつけ、本当に救われ、報われ、不思議な不思議な時間、切なく、哀しく、あたたかく、やわらかい、2日間でした。


2日の早朝に警察へ向かい、説明を受け、ご遺体と面会させていただきました。


穏やかな、穏やかな、お顔でした(涙)。


警察からその方を引き取り、寝台車にお乗せして、恩納村の斎場に向かいました。


駆けつけた者と、沖縄の方々と、火葬場の中の、炉の前で、ほんの数人の、小さな、小さな、告別の法要をさせていただきました。


南無妙法蓮華経の御題目と、たった一つのお拍子木の音が、堂内に響いていました。


約2時間半、私たちだけ、ポツンと待合室にいました。


そして、しっかりと、恩ある方の骨を、拾わせていただきました。


いま、ご遺骨を抱きしめて、横浜まで連れて帰ってくることが出来ました(涙)。


亡くなられたのは、いつかブログでも書かせていただいたことのある方でした。


1987年、憧れの先輩にくっついている貧しい学生ジェットスキーヤーに、ガソリンやオイルを買い与え、腹ペコで飢えた僕たちを食べさせてくれた方。


19才になった僕たちを、夏の間葉山の海の家で働かせてくれました。


本業ではなく、海にいる僕たちのような者のためにオープンしてくれた海の家。


逗子の駅前にあったお店や、葉山の御用邸の前にあったお寿司屋さん、「しょうざん」というトンカツ屋さん、その他の連れて行ってくださったいろいろな場所。


いつも青二才の僕たちを連れて行き、お腹いっぱいにしてくれました。


あの頃、本当に散財させてしまいました。


朝一番から夕方、太陽が海の向こうに沈むまで、先輩を追いかけ、追いかけて、カラカラになるまで練習していました。


夕方になると、いつも太陽は海の上に黄金の道を作ってくれます。


その果てしなく続く金色の道を、トビウオのように飛び跳ねながら、どこまでも走ってゆきました。


思い出の中では、今でも全てがキラキラと輝いています。


本当に。


すべてのシーンがキラキラして、眩しいんです。


いくつかの夏があって、僕はジェットスキーのプロになり、全国のレース、沖縄のレースにも出れるようになりました。


大恩ある先輩、師匠、みなさん。


そのおかげです。


本当に、人生には春があり、夏があり、そして秋もあり、冬もあります。


まるで映画『ビッグウェンズデー』と同じように。


あれから、もうすぐ30年。


時々、本当に数年に一度、あの海に行ってみるのですが、どれだけ時間を過ごしても、キラキラした眩しさは見つかりませんでした。


貴重な貴重な時間を、体験を、思い出をくれた、大切な方でした。


葉山の綺麗なマンションにお邪魔した時、若い僕たちが部屋中を汚くしてしまったこと。


本当に、ぐちゃぐちゃにしてしまいました。


バカな若い衆でした。


しかし、そんな僕たちを、いつもただ笑って、見守ってくれていました。


僕がプロを辞めて本山に行く、西森が大学を卒業して高知に帰る春、その方が箱根の温泉に招待してくれました。


泊まったこともない美しい旅館、大きな部屋の中、その方と西森とやっちゅと僕、たった4人で美味しいお食事をいただいたんです(涙)。


だめだ。


思い出して、また涙が出る。


僕たちには過ぎたことでした(涙)。


迷惑ばっかりかけていたバカな若者だったのに、愛情を、いっぱい、いっぱいかけてくださいました。


なんだったんだろうー(涙)。


いま、こんなに突然逝ってしまい、その後は誰もいないので、これまで住んでおられた沖縄の部屋を片付けさせていただきました。


2トンのトラック5台か6台分、大変な荷物でした。


駆けつけた者みんなで、今日は地元の人も加わってくださり、奇跡的に、お部屋が綺麗に片付いてゆきました。


本当に、ありがたい(涙)。


何もかもが、ありがたいです。


お昼過ぎ、みんなで少し海岸に行きました。


ほんの数分間。


一人ひとり、その方を想って、海に向かいました。


涙が流れました。


その瞬間、不思議なことに、あの頃と同じように、キラキラ眩しい海を見ることが出来ました。


南無妙法蓮華経ー。


御題目をお唱えして、キラキラ、キラキラ。


この沖縄の海にも、いてくれると思います。


ご遺骨は、僕がしっかりとお預かりし、第二本堂の納骨檀を求めて護持させていただきますが。


沖縄の海にも。


久しぶりの沖縄でした。


ジェットスキーを通じて、数えきれないほど沖縄に来ました。


沖縄で開催されたワールドカップ、そしてJALカップへの出場、レース、撮影、デモンストレーション、いろいろなことで何度も沖縄を訪れてきました。


思い出の海に、また一つ絶対に忘れられない思い出が増えました。


僕が住職となってから数年後、その方は妙深寺にお参りくださり、御本尊を拝受、ご奉安されました。


沖縄のお家のご宝前に、瓜生さんが送ってくださったお手紙、妙深寺報、ご祈願カードなどがあり、しっかりと護持してくださっていたことが分かり、泣きました(涙)。


病気をされたこと、お見舞いに行った時のこと、妙深寺の本堂で泣かれていたこと、ご自宅にご奉安させていただいた日にずっと泣かれていたこと、京都に来てくださった時のこと、京都で三芳さんに連れて行ってくれたこと、今年の8月にお会いした時のこと。


思い返して、思い返して、思い返して。


僕に出来る精一杯のことをさせていただきたいと思い、沖縄に行ってきました。


二度と戻らない人生でお出会いした、かけがえのないお方のお一人でした(涙)。


本当に、この度の沖縄では不思議なことがたくさんあり、悲しいはずなのに、そうではなく、そうさせない、全てがありました。


いま、一緒に、横浜へ帰って来ました。


安心してください、これまで何も力になれなくて、ごめんなさい(涙)。


もっと、きっと出来ることがあったのに(涙)。


でも、これが始まり、これからが大切だと想って、すてきな先輩たちに比べたら下っ端の後輩ですが、みなさんと一緒に前に進んでゆきたいと思います。


僕に宛てた手紙、大切にします(涙)。


目にかけてくださった、信じてくれた、一人の人間として、佛立教務として、自分が誓った生き方を、さらにまっすぐ、貫いてゆきたいと思います。


ナガマツは絶対に負けません。


南無妙法蓮華経ー。


そして、突然の留守をお許しくださった妙深寺の皆さまに心から感謝しております。


ありがとうございました。


深夜となりますが、このままこれから納骨式をさせていただきます。


明日は長松寺で11時過ぎから結婚式を勤めさせていただきます。


明朝京都に向かいます。


重ねて横浜を留守しまして、申し訳ございません。


とにかく、どこでも、一生懸命ご奉公させていただきます。


本当に、ありがとうございました。

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