ブラジルでさせていただいた御法門の原稿です。
ブラジルに到着した日の夜、ひたすら、思いをはせながら、書かせていただいたもの。必死の。
驚くべきは、その日の夜にはサンパウロでさせていただいた御法門がポルトガル語に翻訳されていたこと。
日教寺、本法寺、本妙寺、日扇寺、如蓮寺で、モニターにポルトガル語を表示いただきながら、御法門をさせていただきました。
以下、原稿です。
御教歌に。
「めでたさは、御題目にうちもたれ、仏の国へ帰りけるかな」
佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌です。
愛する人との別れ。
南無妙法蓮華経の御題目だけ、ご信心だけが、無常の悲しみ、苦しみを、生きる力に変える。
生きている限り、必ず別れは訪れる。
信心が無ければ人生は虚しいだけ。悲しいだけ。
今こそ本当のご信心をする時。信心を本物にしなさい。
再拝させていただきます。
「めでたさは、御題目にうちもたれ、仏の国へ帰りけるかな」
信心が弱ければ、愛する人との別れに悲しむだけ。
運命を憎み、神や仏を恨む。
しかし、信心があれば、永遠の命を知ることが出来る。帰る場所を知ることが出来る。
この御教歌は長松家と関係の深い御教歌。
タイトルは「長松栄女の臨終を」。
長松栄は開導聖人の奥さま。
長年開導聖人のご奉公をサポートして、宥清寺にいた若い教務さんや学徒のケアをしてきた。しかし大変身体が弱かった。たくさんの御利益をいただいてご奉公してきたが、開導聖人よりも先に死んでしまった。
ずっと一緒にご奉公してきた妻との別れ。
当たり前ですが、開導聖人であっても、寂しい、悲しい。
しかし、しかし。
悲しいけれど、辛いけれど、「めでたさは、御題目にうちもたれ、仏の国へ帰りけるかな」。
「悲しいけれど、有難いのは、たくさんの功徳を積んだお前は、御題目に身を任せて、み仏の世界、永遠の寂光に帰っていったのだ」
私たちは、愛する人といつか必ず別れる運命です。どんなに愛してもいつか終わりが来る。そして、それはいつなのが誰も分からない。
自分の運命を知る人はいない。
自分の寿命を知る人はいない。
自分の謗法の重さ、自分の罪障の大きさを知る人もいない。
御題目は運命を変える。ご信心はダメなものをダメでなくす。たくさんの現証の御利益を顕す。
しかし、人間は自分のしたことは大きく考えて、自分の運命、謗法や罪障は気にかけない。
だから、すぐに運命を呪う、神や仏を憎む。
そうではない。
いい人が早く死に、悪い人間が長生きをする例はどこにでもある。
大切なことは、寿命の長さや短さではなく、その人が生きている間に、どれだけ功徳を積んだのか、ご奉公したのか、人を支えたのか、人を励ましたのか、人を助けたのか、それだけだ。
開導聖人の奥さまも、たくさんのご奉公をした。たくさんの功徳を積んだ。たくさんの御利益をいただいた。
しかし、開導聖人よりも先に死んでしまった。
悲しい。寂しいけれど、そこに間違いなく、永遠の命がある。有難い、ありがとう。ありがとうございます、と。
御題目、ご信心だけが、無常の悲しみを、生きて力に変えることができる、御利益に変えることができる。
開導聖人は先に奥さまを亡くされて、そこで私たちに教えくださった。
お祖師さま、日蓮聖人は、先にご主人を亡くされた方に手紙を書いて教えてくださっている。私はこの手紙をよく結婚式の時に紹介する。
「いまあなたは夫に先立たれて哀しみに泣いているかもしれないが、私たちが生まれ変わり死に変わりしていた中で結ばれた相手は海の砂の数よりも多かったのだ。しかし、今回のご主人との愛こそ真実、永遠の人であった。なぜならご主人の勧めで真実の仏法に出会い、一緒にご信心、ご奉公が出来た。だから真実、永遠なのだ。そうであるなら、あなたはご主人を仏と同じように敬うべきだ」
これこそが、無常の中の永遠です。
いま、私たちは3人の素晴らしい佛立教務、ご住職を失った。
あり得ない出来事であり、その悲しみは言葉に出来ない。
しかし、佛立教務の死はそのまま御法門なのだ。しかも3人が同時に亡くなったのだから、想像がつかないくらい大切な、厳しい、真実の御法門なのだ。
彼らは私たちに命をかけて教えてくれた。
私たちは無常を忘れていた。
自分の運命、謗法や罪障に目を向けずにいた。
もっとご信心、ご奉公が出来るのに、していなかったかもしれない。
無常のオオカミは次の獲物を狙っている。
世界中で女性や子どもたちが殺されてゆく戦争は終わらず、テロも増え、心がバラバラになってゆく中、ただ私たちだけがみんなを救えるプリモーディアル・ブディズムを知っているのに、いただいているのに、それを伝えることが出来ていない。お教化も、ご弘通も、まだまだ出来ていない。
私たちはエゴイストすぎる。
私たちは弱すぎる。
私たちは油断していた。
今こそ誓おう。
私たちは彼らに教えてもらったのだ。
私たちは彼らの命がけの御法門を受け止めよう。
ネパールも、彼らのおかげでご弘通が出来た。
御題目、ご信心は、悲しい死を、次の生命に変えてくれる。
一年前、小原旭という青年がネパールで死んだ。
しかし、彼が死んで、私たちは目覚めたのだ。そしてネパールのご弘通が一気に進んだ。
11月、ネパールに御題目のストゥーパが完成し、ネパールの外務大臣も出席してHBSを称えてくれた。現在ネパールにはすでにたくさんのフォローワーがいる。
そして、ネパールで中心になってご奉公してきたコレイア清行は、子どもの頃から伯是師にブラジルで教えてもらったことを思い返していたから、このネパールで開教のご奉公ができたと言っていました。
「わがまま言わずに頑張れ!やれ!」
「文句を言うな!」
「汚い、他の人がやりたがらないご奉公はもっとたくさんの功徳が積める」
「裸足で歩け、シャワーはなし」
「24時間ご法様のために生きなさい!」
コレイア清行師は、伯是師に教えていただいたことを思い返して、ネパールでご奉公していたのです。こうした伯是師の教えや存在があったからこそ、仏教の創始者・ブッダの生まれたネパールで、この尊い御題目が広まっているのです。
ブラジルにもご縁の深い妙深寺の小泉博さん。
12月までのお教化は4戸(一部訂正)。そもそも彼の一年間の教化誓願は10戸でした。
残すところあと1ヶ月となり、彼も半ば諦めていたと言います。
しかし、12月6日に早朝、ブラジルから連絡を受け、3人のご住職が亡くなったことを知りました。
彼も深くショックを受け、泣いて、泣いて、しかしだからこそ信心改良を誓ったというのです。彼は即座にこれを命懸けの御法門、お折伏と受け止め、諦めていた自分を情けなく思ったのでした。
そして、なんと昨日メールがありました。
「ありがとうございます。今日、10戸のお教化をさせていただくことが出来ました!
ブラジルのご遷化されたご住職皆さまのおかげです。頑張ります!」
いかがでしょう。このように、ご住職方のご遷化は、悲しい、悲しいけれど、私たちにご信心の改良を促し、正しい信心の道を教えてくれているのです。
これまで3人のご住職に教えていただいてきた方々。一緒にご奉公させていただいてきた方々。
ここにご紹介したお祖師さまのお手紙と同じように、私たちは3人のご住職方に感謝して、彼らを御仏と同じくらたあ敬うべきです。
「御利益は3年経って振り返れ。」という教えがあります。
今回の悲しい出来事、寂しい別れは、今は何一つ分からないかもしれません。
しかし、いま分からなくても、3年、いや、もしかしたら100年後に、その意味が分かるかもしれません。
すべて私たちの信心やご奉公次第です。
開導聖人御指南を拝見いたします。
「人間一生積み重ねたる功徳のところに帰るなりと承り候へば日夜に御題目を唱えるのもたのしみに候なり。高祖曰、南無妙法蓮華経と唱えて御題目の中に帰る。」
私たちには帰る場所がある。
南無妙法蓮華経の御題目だけ、ご信心だけが、無常の悲しみ、苦しみを、生きる力に変える。
信心が無ければ人生は虚しい、悲しいだけです。
今こそ本当のご信心をする時。
あなたのご信心を本物にしなさい。
御教歌に。
「めでたさは、御題目にうちもたれ、仏の国へ帰りけるかな」
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