2016年12月10日土曜日

無常の中の永遠

お祖師さまのお言葉を拝見したいと思います。

涙が溢れるほどの名文、慈悲深い御意。『持妙法華問答抄』の一節。


「出る息は入る息をまたず、いかなる時節ありてか毎自作是念の悲願をわすれ、いかなる月日ありてか無一不成佛の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。総て過にし方をかぞへて、年のつもるをば知るといへども、今行末にをいて一日片時をも誰か命の数に入るべき。

臨終既に今にありとは知りながら、我慢偏執、名聞利養に著して妙法をとなへたてまつらざらん事は、心ざしのほどむげ(無下)にあひ(愛)なし。さこそは皆成佛道の法とはいへながら、この人いかでか佛道にものうか(懶)らざるべき。

いろ(色)なき人のそで(袖)にはすぞろ(漫)に月のやどることかは。又いのちすでに一念にすぎざれば一念随喜の功徳を説きたり。もしそれ二念三念を期すといはば、平等大慧の本誓、頓教一乗皆成佛の法とはしるべからず。

流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をもおさめたり。故に頓証菩提の心におきてられて、狐疑執著の邪見に身をまかすることなかれ。しやうがいいくばく(生涯幾)ならず。思へば一夜のかりのやどりを忘れていくばくの名利をかえん。又えたりとも是れ夢の中のさかへ、めづらしからぬたのしみなり。但先世の業因に任せて足りぬなるべし。

世間の無常をさとらん事は眼にさへぎり耳にみてり。雲とやなり雨とやなりけん。昔の人は但名をのみ聞ゆ。露とやきへ煙とや登りけん。今の友も又みえず。我れいつまでか三笠の山の雲と思ふべき。

春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染る。是皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には「世皆不牢固如水沫泡煙」とすゝめたり。「以何令衆生得入無上道」の御心のそこ、順縁、逆縁の御ことのは既に本懐なれば、暫くも持つ者も又本意にかなひぬ。又本意に叶はば佛の恩を報ずるなり。悲母深重の経文心やすければ、唯我一人の御くるしみもかつがつ(方方)やすみ給ふらん。釈迦一佛の悦び給ふのみならず、諸佛出世の本懐なれば十方三世の諸佛も悦び給ふべし。我即歓喜諸佛亦然と説かせ給へば、佛悦び給ふのみならず神も即ち随喜し給ふなるべし。」持妙法華問答抄


「出る息は入る息を待たないほど短いものです。どのような時節に毎自作是念という御仏の悲願を忘れ、いかなる月日に無一不成仏の法華経を持たないでいられるのでしょう。

昨日が今日になり、去年が今年となることも余命ともなりません。すべて過ぎていった月日を数えて年が積もるのを知りながら、今から行く末のことは一日片時も誰が「命」の数の中に入るでしょう。

すでに臨終が今訪れると知りながら、「我慢偏執」「名聞利養」に囚われて、妙法をお唱えさせていただけないということは、その志も全く甲斐がありません。それでは「皆成仏道」の御法と言いながらこの人はどうやって仏道を成就できるでしょう。

情のない人の袖には勝手に月も宿ることはありません。命はまさしく一念の間に過ぎないから仏は一念随喜の功徳を説かれたのです。もしそれが二念、三念になるといえば、「平等大慧の本誓」「頓教一乗皆成仏の法」と知ることは出来ません。

法華経流布の時は悪世末法、法も滅する時となり、人びとの機根は五逆や謗法を背負っています。だからこそ頓証菩提のお約束のとおり、疑いや迷い、執著という邪見に身を任せてはならないのです。

生涯はいくばくもありません。思えばこの世は一夜の仮の宿に過ぎません。このことを忘れてここでどれほどの名利を得ようというのでしょう。得たとしてもこれは夢の中の栄えであり、珍しくもない楽しみなのです。ただ先の世の業因に任せて今生は足りるものです。

世間で無常を覚ることは、眼に余り、耳に満ちるほどです。昔の人はただ名を聞くのみで、雲となり雨となったようです。今までいた友も見えません。三笠の山の雲のように、我が身がいつまでもあると思っていられないのです。

春の花が風にしたがって散り、秋の紅葉が時雨に染まります。これらは全て永く続くことのない無常の世の実例ですから、法華経には「世界が皆牢固でないことは、水の泡や炎や煙りのようである」と説かれているとおりです。

「なんとしても衆生を無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就させたい」という御心の底、順縁から逆縁へ向けた尊いお言葉は、まさにこれこそ御仏のご本懐ですから、少しの間でも持つ者でも御本意に適うのです。また御本意にかなうならば、仏の恩を報ずることにもなります。悲母のような慈悲深重の経文を尊く抱き、「唯我一人 能為救護」との御苦しみも何とか安らかにならえるはずです。釈尊一仏が悦ばれるばかりでなく、法華経は諸仏出世の本懐ですから、十方三世の諸仏もお悦びになられます。また「我即歓喜 諸仏亦然」と説かれているとおり、仏が悦ばれるだけでなく諸々の神も同じく随喜されることでしょう。」(清潤訳)


結婚式等で重ねてご紹介するお祖師さまの御妙判。『上野殿後家尼御前御返事』の一節。

お祖師さまは夫に先立たれた上野さまに、、次のようなお手紙をお送りになっておられます。


「生生世世の間ちぎり(契)し夫は大海のいさご(沙)のかずよりもをゝくこそをはしまし候けん。今度のちぎりこそまことのちぎりのをとこ(夫)よ。そのゆへはをとこのすゝめ(勧)によりて、法華経の行者とならせ給へば佛とをがませ(拝)給べし。」上野殿後家尼御前御返事縮一〇四九


「あなたは夫に先立たれて哀しみに打ち震えているかもしれません。しかし、私たちが生まれ変わり死に変わり、生々世々を流転する中で結ばれた相手、契りを交わした夫は、海の砂の数よりも多くいたはずなのです。

しかし、この度の契りこそ、真実の契りの夫でした。なぜならば、ご主人の勧めによってあなたは真実の御法と出会い、法華経の行者となれられたのですから、仏と同じようにお敬いすべきです。」(清潤訳)


永遠の愛。


生まれ変わり、死に変わりする永遠の時間の中で、今生という一瞬で出会えた奇跡。


その奇跡を永遠のものとする真実の御法です。


慈悲深く、尊い教えであり、流転する生命の真理です。


佛立開導日扇聖人御指南。


「人間一生積累ねたる功徳の処へ帰る也と承り候へば、日夜に口唱怠らぬもたのしみに候也。高祖曰、南無妙法蓮華経と唱へて御題目の中に帰ると思へば、其所が行者己心の三千具足常住の浄土也との御指南に候なり」勧誡二門抄・扇全十二巻三七五頁


「めでたさは御題目にうちもたれ 仏の国へ帰りけるかな」


御題「長松栄女の臨終を」

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幸の湯、常さん、北九州

帰国後、成田空港から常さんの枕経へ直接向かいました。 穏やかな、安らかなお顔でした。こんなにハンサムだったかなと思いました。御題目を唱え、手を握り、ご挨拶できて、よかったです。とにかく、よかったです。 帰国して、そのまま伺うことがいいのか悩みました。海外のウイルスを万が一ご自宅へ...