2007年6月9日土曜日

信心とは覚悟

 妙深寺の朝、6:30分。
 憲史くん以来、どんどんとお参詣が増えている。「一人が変われば世界が変わる」と常々言っているのだが、憲史くんの開門参詣は一日も休まず続いており、その教化親であるひろし君も6月1日から開門参詣をはじめた。先日、京都にご奉公に行かせていただいた際にも、本山宥清寺に参詣し、続いて長松寺の御宝前でも30分はお看経していただろうか。

 ひろし君が第二弘通部の部門長であることもあって、O君は毎週土曜日に参詣しているし、黒崎さんやチカちゃんや路子ちゃんや、やっちゅや直ちゃんなど、開門参詣をはじめ、そして続けてくださっている。

 また、ひろし君とは同名で、一年前にご信心をされるようになったヒロシ君。彼は30前だが新進気鋭のグラフィック・デザイナーでロンドンで個展も開いたことがある。青少年の一座のポスターも彼のご奉公によるのだが、その彼までお参詣をするようになった。しかも、みんな家が遠い。白金や新木場、日野や中野からお参詣されている。何度も書いているように、今の世間の考え方からすれば、「朝参詣」など何の得もないのだ。それで無くても忙しいのだから、もっと寝ていた方が効率が良い、疲れない、お金も勿体なくない、身体にも負担がない、と。 それでも彼らはお参詣している。しかも、特別な病気全快などの御祈願があるわけではない。ご利益をいただきたいと強烈に思っていたり、目前にあるそれを目指して厳しい開門参詣・朝参詣を続けているわけではないのだ。

 ただ、自分の人間としての器を広げ、地に足を付け、他の人のために祈り、それを通じて必ず自分に欠けているものが見つかり、御法さまの御力、お導きとお見守り、サインをいただいて、人間としてバージョン・アップできると確信している。言葉には出さなくても、彼らの思いはそこにあると思う。 それは、少しだけ今までのお参詣と異なっているように感じる。新しい方々、まだご信心に出会って一年にも満たない方々、お仕事があり、最も多忙な時期にある方々のお参詣。そして、私たちが考えるような「特別な御祈願」のない方々のお参詣である。

 そのお参詣に気張っておられる方の口から「覚悟」という言葉を聞く。「ご信心は『覚悟』だ」と。私たちの言葉にすると「決定(けつじょう)」という意味であると思うのだが、生きていく上でも、特に仕事の面でも、「覚悟」の無い人間ではダメだということなのだろう。 いまの社会では、その「覚悟」を見つける、「覚悟」をする機会がない。学ぶ機会が限られていて、生きていく、仕事をしていく「覚悟」のないままに社会に出てしまう。 すると、根無し草や浮き草のように、水に漂い、嵐が来れば遠くに流されてしまう。そんなフワフワとした生き方ではダメであるから、ご信心で「覚悟を養え」、「覚悟をしてみろ」というのだろう。

 朝参詣、開門参詣、ご奉公で、「覚悟」をしてみる。 1ヶ月参詣するぞ、1ヶ月開門参詣するぞ、毎週お参詣するぞ、「3ヶ月間、私は毎週土曜日にお寺にお参詣します」「御講参詣を欠かさないぞ」と、若い方々が語り合って、励まし合っている姿は、微笑ましい以上に、「覚悟」を感じる。

 そう、「覚悟」のお手本はお祖師さまが示してくださっていると思う。佐渡に着いて、それを考える。

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