2007年6月14日木曜日

塚原根本寺を訪れて

 あっという間に時間が過ぎていく。
 佐渡に行っていたことも忘却の彼方。そんなことではいけないが、充実した毎日を送らせていただいている。各教区、各ご家庭で御講が連日奉修され、毎日さまざまな方々とお話をさせていただける。有難いことである。
 佐渡から帰った翌日から連日御講で、特に昨日は御総講、御講席2席、帰山して18時から関内でご奉公であった。帰山は23時、今朝は先住の祥月ご命日。机に向かう時間が無く、ブログの更新もままならない。ただ、「忙しい」とは文字通り「心」を「亡くす」と書くのだから、「忙しい」などと言っている場合ではない。
 メールも一日に30通は送っていただける。「いただける」というのは、何もなかったらご奉公など出来ないのだから有難い。当たり前のことだが、生きている間のご奉公。自分が死んだら返信など出来ないのだから、最高に幸せなことだ。
 ようやくPCの前に座れた。
 佐渡での記憶が薄らぐ前に書いておかなければならない。
 それは、歓要寺でお看経中に感じたこと、その後の根本寺、妙照寺へ訪れて感じたことなど。
 お看経をさせていただきながら、涙が溢れてきた。御導師の御法門では、あらためてお祖師さまの佐渡島でのご苦労についてお説きいただいた。聴聞させていただいて、また胸に込み上げるものがあり涙が出てきた。
 なぜお看経中に感激したのかといえば、そこで拝唱する「観心本尊抄(「如来滅後五五百歳始観心本尊抄に曰く~」と無始已来の後で読ませていただくもの)」も「如説修行抄(私たちが毎朝、御講でも拝読する「如説修行抄、夫れ以れば末法流布の時、生を此土に受けて此経を信ぜん人は、如来の在世より猶多怨嫉の難、甚だしかるべしと見えて候なり~」という御妙判)」も、この佐渡でお祖師さまがお認めになられた御文なのであるから。私たちが世界中で拝唱し、拝読する御文が、この地で認められたのだから。
 また、服部御導師の御法門で、そのことを再確認させていただけた。同時代(お祖師さまよりも少し前)に佐渡に流罪となった順徳上皇ですら、この佐渡で亡くなっておられる厳しい時代、流罪という刑罰にあたって、むしろそれを喜びされたお祖師さまの御覚悟。
 私たちは、『開目鈔』上下二巻を撰述されたと伝えられている「根本寺(実際には異説もあり、前回は妙満寺の近くの遺跡を訪れたのだが)」と観心本尊抄等を撰述された一の谷(さわ)の「妙照寺」を訪れた。
 お祖師さまは、佐渡島への島流しを御生涯の中で必要不可欠のことと感得されていた。
 立正安国論に書かれたとおり、蒙古から日本の服従を求める国書が届き、お祖師さまは再び幕府へ「立正安国論」を上奏された。
 そのことをお祖師さまは、
「同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ(後)みの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の佛もなし。上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに、雪ふりつもり(降積)て消ゆる事なし。かゝる所に所持し奉る釈迦佛を立まいらせ、しきがは(敷皮)打しき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪、雹、雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべきすまゐ(住居)なり」(種種御振舞御書)
とお示しになっておられた。この最初に拘留された「塚原」といわれる場所、手を伸ばせば四方に手が届いてしまうような狭いお堂、屋根も隙間があり、外の風景が見える風の通り抜けるような壁の部屋で、お祖師さまは耐えねばならなかった。
 そこでは、自分たちの信じる念仏を悪く言ってお咎めを受けた悪僧がいると聞きつけて、多くの者がお祖師さまを切ってしまおうと詰めかめる。阿仏坊もその一人だった。
 阿弥陀仏を悪く言う坊主など狂人に違いない、叩き切ってやる、と意気込んで塚原の三昧堂を訪れたのだが、逆にお祖師さまに説き伏せられてしまう。阿仏坊は妻である千日尼と共に、その後はひもじい思いをされているお祖師さまに日々に御供養をされた。そのご奉公を偲ぶために、私たちは最も寒い一ヶ月間、「寒参詣」をさせていただくようにもなった。
 また、佐渡から奇跡的に赦免され、山深い身延に入られたお祖師さまを、阿仏坊と千日尼は佐渡から3度も訪問し、御供養の品々を常に届けられた。そのご信心を、遠い佐渡から続けられたのであった。
 法蓮鈔にお祖師さまは、
「殊に今度の御勘気には死罪に及べきが、いかが思はれけん。佐渡の国につかはされしかば彼国へ趣く者は死は多く、生は希なり。からくして行つきたりしかば、殺害、謀叛の者よりも猶重く思はれたり。鎌倉を出しより日日に強敵かさなるが如し。ありとある人は念佛の持者也。野を行き山を行にも、そば(岨)ひら(坦)の草木の風に随てそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。やうやく国にも付ぬ。北国の習なれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く食ともし(乏)、根を移されし橘の自然にからたち(枳)となりけるも身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中のの(野)三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり(漏)壁は風もたまらぬ傍に、昼夜耳に聞者はまくら(枕)にさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪也。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ぬ。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ぬ。彼蘇武が十九年之間、胡国に留られて雪を食し、李陵が巌窟に入て六年、蓑をきてすごしけるも我身の上なりき。今適御勘気ゆりたれども鎌倉にも且くも身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま(間)松の下に身を隠し心を静れども、大地を食とし、草木を著ざらんより外は、食もなく衣も絶ぬる処に、いかなる御心ね(根)にてかく(斯)かきわけ(掻分)て御訪のあるやらん。不知、過去の我父母の御神の御身に入かはらせ給か。又不知、大覚世尊の御めぐみにやあるらん。涙こそおさへがたく候へ」(法蓮鈔)
 お祖師さまは、亡き両親の魂がお二人に入って私を労ってくれているのではないかと感激されておられた。
 同じ法蓮鈔には、
「信なくして此経を行ぜんは手なくして宝山に入、足なくして千里の道をくわだつるがごとし。但近き現証を引て遠き信を取べし」(法蓮鈔)
 私たちが、学ばなければならない不屈のご信心と、それを支えるご奉公の素晴らしさを教えていただいていると思う。

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