2007年6月19日火曜日

人間の数だけヒーローがいる

 17:46発の帰りの新幹線。徐々に沈んでいく太陽を背にして、横浜に向かう。
 新幹線の窓から美濃の豊潤な平野が見える。この風景を見ながら、いつも思い出すのが長渕剛さんの「浦安のクロちゃん」という曲だ。浦安のクロちゃんと一緒に新幹線で大阪に向かうのだが、その新幹線から見た風景への描写にとても共感する。

 「田んぼのあぜ道を白いヘルメットかぶり、自転車通学の学生が気になる。名も知らぬ町で、名も知らぬ風に吹かれ、アイツもきっと夢があるんだなぁって、、、」というくだりだ。「あぁ、僕もそう感じるなぁ」と思うのだ。

 猛スピードで通り過ぎる風景の中。何処とも知らない、だだっ広い平野に広がる水田。その細いあぜ道を白いヘルメットを被った学生が自転車を走らせている。その子のことに少しだけ思いを巡らせてみると、何とも不思議な気持ちになる。「アイツも夢があるんだろうなぁ」と。新幹線の中と名前も知らない町の田んぼの中の少年。普通ならば何の接点も無いはずだが、新幹線が通過していく一瞬の刹那に、ほんの少しだけ結ばれる私と彼。

 一人一人、人間は自分だけの人生を歩んでいる。当たり前のことだが、それぞれがそれぞれの視界や視点を持ち、苦楽を抱きながら、でも必死に生きているのだろう。普通、それは自分だけの世界であり、自分以外の人が深く知り得るものではない。一人一人の人生なのだ。

 夢と希望、挫折と期待、努力と苦悩、愛や恋。それぞれの人生にはそれぞれのそれらがあるはずだ。日が落ちてきて、家々に灯りが点りはじめると、その灯りの一つ一つにも私の知り得ない人生があるはず。家に点りはじめた灯りを見ながら、そこに住むご家族にも思いを馳せる。

 不思議なものだなぁ。人間という動物だけではないか。こうして自分の外にある世界に、人々に、ここまで思いを馳せられるのは。有難いことだなぁ。

 昔、ファンタのCMのコピーに「遊びの数だけヒーローがいる」というのがあった。私はそのコピーが大好きで、スポーツに関係するビジネスをしていた時に何度もこの言葉を使ったし、今でもそう信じている。大リーグやサッカーのトップ選手だけが「ヒーロー」ではなくて、まさに「遊び」の数だけヒーローがいるなぁ、と思うのだ。街角のスケートボードをやっている少年でも、サーフィンに夢中の中年でも、遊びの数だけ輝かしいヒーローがいると思う。

 同じように、「人間の数だけヒーローがいる」のではないか。もちろん、それは「人(ヒト)」では物足りない。「人」と「人」との「間」にあって、必死に、夢中に、懸命に生きている人を「人間」と呼ぶのだとすると、その「人間」の数だけヒーローがいる、と思う。

 愚かな側面もたくさんあるけれど、そう考えれば人間を信じたくなる。本当のヒーローになってもらいたいと思う。自分一人では「人間」になれないように、自分のことばっかり考えているヒーローなんていない。ヒーローは自分の夢や希望、使命に向かって、必死に頑張る。人のために汗を流し、自分の力を振り絞って使命を果たす。

 そのヒーローの手本こそ、ご信心をしている人であって欲しい。御仏の教えを信じている人であって欲しい。「ご信者の数だけヒーローがいる」「菩薩の誓いの数だけヒーローがいる」と言いたいのだ。

 田んぼのあぜ道を走る少年、会ったこともない人々、名も知らぬ町に住んでいるたくさんのご家族たち。
 あの一つ一つの灯りの下に暮らすご家族、子どもにとってお父さんは強いヒーローであり、お母さんは優しいヒロインなのだろうなぁ。パパやママにとっては子どもたちが小さなヒーローかもしれない。いや、ヒロインと言わないと怒られるかな。

 「人間の数だけヒーローがいる」。そして、本当の「ヒーロー(ヒロイン)」になってもらうために、御仏の教え、お祖師さまの教えを、名も知らぬ町の人たち、ご家族にも伝えたいと思う。

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