2007年6月20日水曜日

スピリチュアル・ブームにもの申す

 ずいぶん前に書いた文章だが、昨今のスピリチュアル・ブームを見ていて感じることが多々あるので、夢を無くすわけではないが、ちょっと考えてもらいたいと思い、ここに載せてみる。私は多分に松井孝典教授の影響を受けているが。

 数千年前から、人は月に憧れを抱いてきた。真っ暗な夜空に輝き、様々な形に姿を変える月は、意識する必要もない程大きな存在の太陽より魅惑的だったという。

 ある時は鏡のように、ある時はか細い女性のように、ある時には暖かい母のように、月は人を魅了してきた。
 約六千年前、チグリス・ユーフラテス川の下流域に住んだシュメール人は29.5日を周期として月が姿を変えることを知り、時間の尺度にした。
 ローマ人は、月のはじめの日を「月を呼んだ日(カレンダエ)」と呼び、この真っ暗な新月の夜空を見上げた時のローマ人の表現が、英語の「カレンダー」という語源となった。

 日本人は、十六夜月(いざよいづき)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、臥待月(ふしまちづき)、宵待月(よいまちづき)と、素敵な呼び名をつけて、天空に浮かぶ月に魅惑的な世界があり、そこに天女が住むと空想していた。

 シュメール人はアッカド帝国に滅ぼされ、アッカド帝国はバビロニア帝国のカルデア人に滅ぼされた。カルデア人は遊牧民で、夜になると星の動きを読み、季節の変化にともなって星が移動することを知り、活用しはじめた。そして、多くの星が規則的に変化しているにもかかわらず、五つの星だけ他の星よりも一段と輝き、何より全体の秩序から外れていることに気づいた。カルデアの人は「行く先に迷っている星」、「惑える星(プラネット)=惑星」と呼んだ。それが、水星、金星、火星、木星、土星だった。

 カルデア人は、この五つの惑星に神様が住んでいると考え、太陽と月を付加した七つの星に、人が生まれてから死ぬまでの一切と、地震や洪水や飢饉(ききん)という自然現象の全てが支配されていると信じるようになった。これが星占い、占星術の起源である。

 多くの人が夢中になる星占い。これらの「惑える星」である「惑星」から六つを選んだ「六占星術」だとかいうモノを使うらしい細木数子姉が本を出し、いくつものテレビに出て人々の注目を集めている。惑星物理学が大好きな私には何の興味もないのだが、それこそ迷信に翻弄(ほんろう)されている人の多さに、悲しくなるばかり。

 この惑星による運命論を、根底から突き崩したのは、約450年前のニコラス・コペルニクス。この聖職者にして政治家、医師にして詩人でもあった数理天文学者は、地球が宇宙の中心で制止しているのではなく、太陽の周りを回る惑星の一つに過ぎないということを明らかにした。地球自身が「プラネット」だったと解明したのである。1543年のことだった。

  これらの七つの「惑星」が、地上の人や出来事に影響を与えているという考えは、地球がその惑星と別の存在、宇宙の中心にあればこそ、それなりに理に適っていたのだが、コペルニクスは地球も大きな「体系」の中の一つの惑星だと明言したのだ。

 カルデア人の時代から三千年もの間、人類はそのことを知らずに、惑星や星座の動きにあらぬ不安や期待を抱いてきた。太陽や月の存在が人類の父や母であること以外は、迷信の枠を出ないということであろう。もちろん、以前に書いたように、森羅万象、太陽や月や星々から見えざるものを感じる「詩人」の心を持つことは大切だと私は信じているが、「迷信」や「邪信」を抱けとは思っていない。

 最も近い月ですら、1969年まで表面の模様は謎のままだった。高名な哲学者であるカントは火山説の主唱者であったし、アポロ11号の月着陸まで、現代の私たちであれば当然のように知っているクレーターの存在や月の表面にある模様について、その謎は解かれないままだった。

 夢の無い話ばかりをするつもりはない。これらの最新の宇宙科学に匹敵する教理が御仏(みほとけ)の説く真実の仏教と完全に合致すると、私には考えられる。

 十方の宇宙に広がる過去・現在・未来の世界を説かれた仏教の宇宙観は、古代インドの散漫な思想などではない。人間は何故、何のために存在しているのか。宇宙こそどのような存在なのか。それを克明に、詳細に覚知(かくち)され、人間のあるべき生き方を示されたのが御仏である。

「宇宙は、宇宙を知り、理解してくれるヒトを求めていた」と先端科学の分野で「人間原理」が注目されている。この惑星に生命(人間以外の動植物すべて)が誕生したとしても、ここまで進化を遂げた現生「人類」がこの「宇宙の存在」について識り、そこから何も見出せないとしたら、この「宇宙」を人類以外の何者が認知してあげられるのだろうか、と。これは最大の科学的テーマである。

 N=Ns×fp×ne×fl×fi×fc×L/G

「天の川銀河に人類のような高度技術文明を持つ生命が存在するか」という問題を考える時に、必ず出てくる「ドレイクの方程式」が前述の数式。

 この銀河系に存在する高等文明の数を「N」とすると「Ns」は、銀河系に存在する恒星の数。「fp」は、その恒星が惑星系をもつ確率。「ne」は、そのなかで生命が生存可能な環境をもつ惑星の数。「fl」は、そこに生命が発生する確率。「fi」は、その生命が知的生命体に進化する確率。「fc」は、その生命体が他の星に対して通信をおこなえる確率。「L」は、その高等文明の継続時間。「G」は 恒星の寿命。

 数式一つ一つに数字を当てはめ、科学的に推定を加えた仮説では、今現在の時点で人類と同じような高等技術文明を持つ知的生命体が存在する可能性のある星は約1000個であるという。まだまだ議論の余地はあるが、これは十分あり得る数字だというのだ。

 しかし、この数式で最も重要なのは「L」。つまり、「その高等文明の継続時間」である。
 ある学者は皮肉にも、高度な技術を持つようになり、宇宙の存在を知り、理解するようになった「文明」の継続時間を、たった「100年」としているのだ。人類は智慧を発達させると同時に、愚かさから自滅するというのである。

 1000個の恒星までの平均距離は、およそ100光年。文明の継続時間がもし100年だとすると、地球圏外の生命と交信することは極めて困難ということになる。

 宇宙に意志があり、宇宙が人類を求めていたとするならば、御仏は宇宙の意志を知り、宇宙の意志を体現された方ではないか。想像を絶する宇宙の大きさと時間の流れの中で、過去の人類、現在や未来の人類を説かれるスケールに驚愕(ぎょうがく)せずにいられないし、仏教とは宇宙の中で生を受けた人間の最も人間らしい生き方を教えてくださるものだと確信している。

 昨年、ギャラップ社の調査によると、米国の45%の人が「人類は約一万年前に神により創造された」と答えている。彼らの信奉する創世記や占星術に迷っていては、高度な技術文明を持つ人類も数百年も経ずに自滅してしまうかもしれない。迷信や邪信では、人類の存在意義にすら迷ってしまう。1960年代に入るまで米国では進化論を教えることすら拒絶していた。現在でもディープ・サウスといわれる米国南部ではそれらを拒否している教育機関もある。そして、最近では「インテリジェンス・デザイン(ID)」という学説が出てきて、進化論に異を唱えて、それらがブッシュ政権にすら影響を与えている。環境問題どころではない。

 天災や人災が相次いでいる。私たちが「仏教」の本質を知らずに、迷信・邪信に甘んじていれば、高度文明の破滅の予兆の中で苦しむことになるだろう。それはカルト的な予言でも何でもない。

 しかし、私たちはオーソドックスな仏教、修行はあくまでシンプルだが、その背後に深遠な教理・哲学を内包する御題目口唱のご信心をいただいているのである。

 迷うことなく、本当の仏教、信仰をしてもらいたいと思う。

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