2007年6月6日水曜日

「回向」について

 今年の7月15日、本山宥清寺の佛立開導日扇聖人の祥月ご命日にむけて大法要(「開導会」または「佛立開導日扇聖人御正当会」と言う)が営まれる。その第四座に奉修される「青少年の一座」についての会議をさせていただいている。

 元来、「ご回向」というのは、読んで字の如く「功徳を回し、向かわせる」という意味。亡くなった人に代わって、生きている人間が「功徳(善き行い)」を「行って(積んで)」、その亡くなった人に回し、向かわせるという意味。一般の私たちでも、その為に「法事(法要)」を行うのだ。さらに言えば、世間の「法事」はお坊さんを呼んで読経をしてもらうのを「聞いている」だけの人があるが、これは勿体ないし、本当の仏教の「回向」ではない。お布施を包むことだけが「功徳行」ではなく、その法要に際して自分自身がブッダの説かれた教えを実践すること、「行うこと」が何より大事。それがなければ、どんなに良いことでも真の「善行」とは言えないのだから。
 つまり、回向の法要というのは坊さん任せではなく、自分たちも実践しなければならない。葬儀でも同じである。お坊さん任せではダメなのだ。
 考えてみれば誰にでも分かるが、難しいお経文は「一緒に唱えなさい。それがご回向です」と言われたって唱えられないだろう。(しかも、回向などで唱えるようになったお経文「理趣経」などは男女交配について書き出される密教の経文で、仏教というよりもヒンドゥーではないかと思う。そういう経文が回向や葬儀に使われていることを知らない人が多いのだが) 

 つまり、大事なのは「ナムミョウホウレンゲキョウ」と「御題目をお唱えする」ことが、何よりの「ご回向」になる。このMost respected Mantraをお唱えすることならば、子どもでもできる。誰にでも出来るから、法要の時には御導師やお役中さんだけではなく、弔主をはじめ参列者の誰もが御題目をお唱えすることが大事なのである。

 もう一つ大事なポイントがある。それは「回向」の中の「回」という字だ。「回る」「回す」だから、ちょっと考えれば分かると思うが、直線の「行ったり、来たり」ということでは「回」にはならない。分かっていただきたいのは、弔主と亡くなった方、生きている私たちと亡くなった方の霊魂という直線的な関係ではなく、そこにもう一つの要素が含まれないと「三角形」にはならず、「回」ということにはならない。

 だから、私と「あなた(亡くなった方)の間に「仏(南無妙法蓮華経の御本尊)」を入れる。私が御本尊に向かい、御題目をお唱えし、御本尊(仏)から亡くなった方に功徳が向かい、その功徳が自分にまで返ってくる(回ってくる)。たとえ思いがあっても、この「仏」「御本尊」を全く無視していたら、ご回向にはならないと教えられている。花を供えることなどは大事なことだが、直線的な関係だけではご回向ではないのだ。本門佛立宗では墓碑の正面にも御題目を刻ませていただくが、それにはこうした意味がある。墓地に行き、花を供えるという直線的な行為だけでは本当は通じない、本当の回向ではないということなのだ。

 また、私たちは「常盆常回向」という。年に数回のお盆やお彼岸、いわゆる盆暮れ正月や、一周忌や三回忌などの年回(法事)の時だけが「回向」ではない。常々、日々夜々が「回向」であると教えていただく。つまり、「毎日のあなたの行動、生き方がご回向です」となる。特別な法要を営むだけではなく、それを基点として御題目をお唱えし、自分の日々の生き様、生き方、行動すべてを「功徳化」して、その功徳を回し向かわせる、と。

 御題目はお唱えするだけではなく、できたら「私もお唱えし、誰かにもお勧めして一緒にお唱えいただく」ということが大事。その生き方すべてが尊い。それこそ、ご回向だ。

 一般の方の回向がそうであるから、先師聖人の祥月ご命日などの法要は、素晴らしい「基点」になる。その「機会」に御題目をお唱えし、お供えすることはもちろんだが、その機会を基点として、日々夜々に自分の生活が功徳化できるようにするのが大切なのである。

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