2007年6月18日月曜日

世を眺めつつ

 お寺は生きている人が集う場所。法事(回向)や墓参りで訪れるだけの場所と勘違いしてもらっては困る。老若男女、世代を超えて「お寺と共にある暮らし」の素晴らしさを実感してもらいたいと思う。
若い人には若い人のための、パパやママにはパパやママのための、子どもには子どもへの、お年寄りにはお年寄りへの教えがあり、学びがあり、交流がある。

 日本では、宗教と距離を置く傾向があるので、若い世代には敷居が高いのだろうか。妙深寺では若いお参詣者が増えているが、それにしてもお年を召した方が多いことは事実であり、それでも良い。ご信心は年を取ってからすれば良いと言っている人には「そうではない」と反論したい。若い今だからこそ信仰を持つべきだと言いたいが、言葉だけでは伝わらないだろう。

 とにかく、お年を召した方が多いのは事実。私はそうした方々を大切にしていきたい。妙深寺でもミニ・デーサービスや、老老介護へのサポート、孤独死ゼロのための企画を進めている。真に心豊かに、いきいきと、何歳になっても「お寺と共にある暮らし」が何より有難いと実感してもらいたいと思う。
 それにしても、最近そのお年寄りに関係する出来事で腹に据えかねるニュースが続く。いや、お年寄りの問題だけではない。若い世代にとっても関係している「年金」の問題がそれだ。
 私は何事も実際にアクションを起こしたり、自分で見聞きしたりしないと気が済まないので、いま話題となっている年金の相談電話窓口に電話をかけてみた。電話番号は0120-657-830なのでみなさんも是非掛けてもらいたいが、報道されているとおり全くつながらなかった。「ただいま、回線が混み合っております。後ほどお掛け直しください」というアナウンスが流されただけだ。
ムカ、ムカムカムカ。
 先述したとおり、お寺には年を召した方が多い。そうした方々の大半が年金で暮らされている。つまり、お年を召した方の貴重な御志は年金の中からお包みくださっていることが多いのである。「お寺のものは祖師のもの」という合い言葉の下、お寺のものを大切に、水道電気ガスなどを節約するのは大切なことなのだが、何よりお年寄りの方々の貴重な「年金」から御志を預かっているという事実も忘れてはいけないだろう。何より貴重な貴重な「浄財」なのだ。
 しかし、そういう私もつい最近まで年金の大切な意味など分からなかった。正直なところ、社会の全員が年金制度を支えて相互に助け合うという大切さよりも、むしろ何度も報道される年金に関連する不祥事に憤りを感じるばかりだった。官僚システムの腐敗や運用の愚かさばかりが眼について、恥ずかしながらお年寄りの目線で年金の大切さを知ったのは30才を超えてからだった。
 それにしても、今回の問題は何だ。何ということなのだろう。どこに問題の本質があるのか。何が問題なのか。
 年金からお寺に御有志してくださっている方々や、年金を支えている世代、これから年金に頼っていくという全世代が集うお寺の中心にいて、この国の政治、社会保障、年金に関連する問題について眼を背けるわけにはいかないと思う。
 年金の問題だけではない。今の日本社会は病んでいると思う。健全ではない。何が健全ではないかといえば、豊かさを背景に、宗教に無関心であるのと同様に政治に対してあまりに無関心なのである。だから、一つの政党が戦後永らく政権の座を独占して、官僚機構に腐敗や癒着が生まれていても、検証する機会を見過ごしている。それこそ、この国の病巣ではないか。
 近代は限りなく政治的な「技術」が進化した時代だと思う。古代ローマの時代から、「アルテ(技術)」と呼ばれる様々な政治的「技術」が開発され実施されてきた。
 カエサル(シーザー)は「ガリア戦記」などの著作(レポート)を戦場からローマに送ることによってローマ市民の支持を得、ついには「ルビコン川」を渡った。いや、渡れたのだと思う。古来から政治家と民衆を如何に結びつけるか、どのような方法で「語るか」ということが、法治国家の法整備と同じくらい重要であったのだ。
 古くから政治家は国民に意思を表明する義務があり、それらを演台や石板、石柱や紙面を用いて伝え、説明して理解を促し支持を訴えた。民主主義的な国家に限ったことではない。封建的な国家であっても民衆を黙らせるために「法」以上にメディアは活用されてきたし、それを活用する「アルテ(技術)」は研究されてきた。
 近代に入り、演台や石板、石柱や紙面に、「ラジオ」や「テレビ」という新しいメディアが加わった。すると、政治家は競ってそれを利用するようになった。
 ヒトラーがラジオを巧みに使ったことは有名だ。ヒトラーに限らず、敵対する連合軍も、第一次・第二次大戦を通じてそれを活用した。あらゆる政権は、意図するところに従ってニュース映画を製作し、それを国内各地に配給・放映した。中立性・客観性を表す「ジャーナリズム」という活動は、永らく根ざすことも出来なかった。各国政権与党は、政治的な成果を期待してニュース映画を製作し、日本でも「大本営発表」などという戦意高揚のための映画が盛んに放映され、それを見ていた民衆の選択の余地は非常に限られていた。
 第二次世界大戦はヒトラー率いるドイツが敗北し、日本も敗戦国となった。私はエルサレムでホロコースト記念館を訪れたが、ヒトラーの背筋も凍る蛮行にはあらためて戦慄した。しかし、その場所でもヒトラーを悪魔として見立てるだけでは不十分なように感じた。なぜなら、何よりヒトラーは政治的なアルテ(技術)を駆使して、あれだけ民衆の「熱狂的な」「支持」を集めたのだ。その事実こそ驚異だと思うがどうであろう。アインシュタインなどの賢明な者(ユダヤ人に限らず)はドイツ国外に亡命したが、多くの国民は疑いを抱きつつも大多数の人間が彼を信じ、彼に政権を与えたのである(ベルサイユ条約によってドイツが背負わされた天文学的な債務を放棄して、ドイツ経済を立て直すという偉業はヒトラーによって実現した。そうした「経済的理由」によって多くの民衆が彼を信じたのであった)。

 私は、政治の技術が進化しすぎていることを忌避しているのではない。しかし、今の日本の病巣にあるのが一党の長い支配にあると思っている私としては、既に社会の重要なシステムが機能しなくなっているにもかかわらず、あらゆる技術を駆使して民衆の支持を得ようとしている政権与党に不安を感じている。私は特定の支持政党は持っていない。しかし、何党が良いということではなく、年金の問題にしても何の問題にしても、「人間の性」「社会・組織の性」として一党独裁の中に自浄作用を期待できないと思っている。それは、「あらゆる組織は腐敗する」と言ったジェファーソンの言葉を借りる必要もない事実だと思う。
 私は特定のイデオロギーというものを持ったことがない。勉強不足なのだから当たり前だ。しかし、仏教の歴史、あらゆる宗教の歴史を考えても、年月と共に教えが形骸化したり、聖職者が特権階級化したり、腐敗したりすることを知っている。それが、なかなか自浄作用では改善されないことも知っている。かといって、「革命!」と叫びたくはないし、次々に新しい宗派が「今後も」生まれることを望んではいない。歴史から学ぶべき「人間の性」「社会や組織の性」があると思っているだけで、イデオロギーを信奉するだけの知識がないし、そうした情熱も湧かない。ただ、腐敗すること、癒着すること、人間の弱さや欲望の果たす役割については知っている。だから、「佛立宗」は「人」ではなく「佛」を立てる宗旨としての「名」を掲げている。あくまで「人」が前に出ると性として腐敗していくものであるし、情実に流されればブッダの真意は伝えられず、受け継がれないと考えているからである。あくまでも、「人面法裏」ではダメで、「法面人裏」なのである。
 年金24時間相談窓口、フリーダイヤルの電話受付、それらを約束した首相、政権与党。そうした言葉を耳にしつつ、「お上(かみ)を信じよう」という気にもならないでもないが、実際に電話してみて機能していない様を実感すると「やはり」と思える。「アルテ(技術)」はあっても「ヴィルドゥ(器量)」「信義」がない。残念ながら、そうした言葉を信じていたら、また政治的な技術に踊らされているだけで、後々には失望するのである。

 ハイエク(1974年 ノーベル経済学賞)は、ヒトラーの蛮行に相前後して、1944年『隷属への道』という大著を発表した。私は彼の理論を全て信奉しているわけではないが、彼は「ナチス(ナチスは国家社会主義)と戦う側のイギリスなども本質的にはナチスに通じる主張をしているではないか」と批判した。つまり、晩年は哲学者・思想家の風貌を持ったハイエクだが、私が感じたままを言えば、結局「どっちもどっち」ということだった。社会主義だろうと自由主義だろうと、問題の本質は別の次元にある、と。もっともっと根深い、と。当たり前のことだが、「社会主義」にしても「市場主義」にしても、「社会」を構成しているのは「人」である。「人」の本性を無視して主義もへったくりもない。自然科学的なアプローチでそれが解明されることは素粒子実験で5次元を実証するのと同じくらい難しいと感じるのだが。とにかく、ハイエクは「自由主義」とも言われたが、これも西欧の宗教的価値観を前提にした理論だと私には感じられる。
 社会は、「機能」が大事で「主義」では変わらないと思う。機能とは、とにかく国民による選挙というチェック機能、判断、政権が健全に交代するという「機能」だと思うがどうであろう。あえて言うなら、私は「機能」や「主義」で変わらなくても「信」で変わると思っているのだが、唐突過ぎてこれを読んでいる人は理解できないと思う。
 ヒトラーは国会に放火し、放火したのは共産党だとデマを宣伝して選挙にも勝ち、憲法を改正し、チェック機能を残したまま蛮行に至った。その「事実」こそ「蛮行」以上に問題だと思う。そして、ヒトラーを信じた人々は、最終的には彼の妄想によっておぞましい地獄を味わった。未だにヒトラーの亡霊は世界に息づき、影を落としている。
 「ヴィルドゥ(器量)」「信義」を棚に上げて、「アルテ(技術)」だけで政治が行えるとしたら、恐ろしい。実際は、「行える」のである。メディアを活用し、小泉前首相のように政治的な天才は民衆の想像力を巧みに使いながら支持を獲得する。私は、残念ながら彼の魅力は認めるが、あの「劇場」には二度と行きたくないと思っている。
 「民営化」すれば良いという意見には大反対である。その前に「公」とは何かが官僚に対して何ら語られず、小手先の「民営化」で政官業の癒着や腐敗が改善されることはないからだ。「民営化」だの「有識者会議」だのは、結局一党支配を続けるための小手先の「アルテ(技術)」の一つだと思う。それ以上に問題なのは、各省庁の官僚と一党の政治家との代わらざる関係であり、票田となっている準官僚団体と政権与党との癒着なのだ。抜本的に改革できる自浄作用があるとは信じがたい。
 森前首相のように「選挙に行かないで、家で寝ていてもらいたい」と無党派層に呼びかけるような国では、年金問題に限らず、国民を愚かな方向に陥れる「蛮行」が繰り返されないとも限らないと思うがどうだろう。国民を安心させるだけの「有識者会議」など屋上屋(屋上の上にさらに屋上を作る)で恣意的過ぎる。では、政治家の役割とは何なのか。
 イギリスでは野党にのみ政党助成金を支払う。強い野党が無ければ健全な民主主義が機能しないと考えているからだ。日本では政権与党を支えるために政党助成金は与党にもがっぽりと入り、それすら機能していない。
 とまぁ、こんな感じで書いてしまったが、新幹線の中が暇だったので仕方ない。
 突き詰めると、「年金問題」は国民全員に責任があるのだろう。そういう政治を選んできているのだから。しかし、後で後悔しても仕切れなかったであろうドイツ国民のようにならないように、と祈る思いだ。

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今年もいよいよ大詰めですー

いよいよ「今年最後」のご奉公が続き、「よいお年を」というご挨拶をさせていただくようになりました。 今年最後の教区御講を終えた日曜日の夕方、横浜ランドマークタワーのスタジオで白井貴子さんをゲストにお迎えしてラジオの収録を行いました。ずっと聴いていたいほど大切なお話が盛りだくさん。 ...