移動に強いこと、どこでも寝れる(長時間快眠できるという意味ではなく)こと、どんな食事でも美味しくいただけることなど、自分に課すべきことがあります。
暑さにも寒さにも強くなければならないし、綺麗だの汚いだのと言わない。なぜこんなことを課すのかというと、そうでなければ菩薩行にならないことが多いからです。
恵まれた環境に身体が慣れてしまうと、いざという時に動けなくなる。大切な時に気分が沈んだり、対応が鈍ったり、判断に迷ったりする。これでは人助けが出来ない。仏道修行にならない。菩薩行を志す者として、普段からの備えが足りない、準備不足と言われてしまう。
正直に告白すると、実は自分には苦手なことがあった。虫が大嫌いで、変に潔癖性のようなところがあった。少し汚いと落ち着いて眠れないとか、クーラーがないとダメだとか。
そんな自分に劣等感を感じたのは20代の後半か、30になってからだと思う。これからの自分の目指すご奉公を突き詰めて考えると、そんな自分では行き詰まることが分かった。これでも結構悩んだものだ。それほどお坊ちゃんだったとは思わないのだが、甘えがあったのだろう。このことを思い知り、それらに囚われなくなった自分は、本当に自由になることが出来た。
法華経には末世の僧侶たちが美食に焦がれて堕落するというお言葉がある。篤信の方々は美味しい食事をご供養くださるが、そうしたご供養に慣れてしまったら仏説にある「泥団子」のようなご供養をいただけなくなる。常に基準を「美味しい」ではなく、「志」に置いておかなければ、ご供養を受ける者としてのご奉公ができなくなる。
どんな場所で眠れるように心掛けることも大切なことだ。日博上人がブラジルに行かれた時の宿泊は、ほとんどご信者さんのお宅だった。高級ホテルに泊まるようなことを続けていたら、やはりご奉公できなくなる。東日本大震災の支援活動では、寝袋で幾晩も過ごしたが、何の苦も感じないようにしておくことが大切だと思う。
暑いだの寒いだの言っていたらご奉公にならないことがある。だから、毎日にそうしている必要はないが、時には何でもない時に床へ寝たりしておいた方がいいと思う。ちょっとストイック過ぎるかな(汗)。
でも、そういう「常在戦場」のような気持ちが、僕たちには大切なのだと思う。
戒律のようなものはない。でも、菩薩行が出来るか、出来ないか、という尺度で自分を鍛えておくことだけが大切だと思う。食べれる時には食べて、美味しい食事もすればいいし、お酒も飲んだらいいと思うけど、どこに基準を置いておくか間違ってはいけないと思う。
少しでも油断して贅沢になったり、身体が怠けてしまうと、心身ともに動けなくなるから。
ということで、長距離の移動や過密なスケジュールを組んでいる自分を納得させている今日この頃(笑)。ありがたい。
それにしても、妙深寺の教務さんはすごいな。体力も技量も慈悲もセンスもあるし(笑)。清康も清顕も、ずっと運転してる。清顕は一人で2tトラックを運転して横浜に向かってる。8時間は運転しっぱなし。
ありがたい。
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