2014年2月14日金曜日

宮沢賢治論

 宮沢賢治論(抜粋) 草野心平 1931年

 宮沢賢治は世界にたった一人しかいない。ブリキ屋平山熊吉も世界にたった一人しかいないように。宮沢賢治の芸術は世界の第一流の芸術の一つである。ブリキ屋平山熊さんが日本一流のブリキ屋である如くに。次々に生まれてくる世界の古典が「ここにも仲間がいる」と宮沢の芸術に胸をドキツカセルだろう景色は思っただけでも嬉しいことである。

 宮沢賢治はどんな人物か。彼は植物や鉱物や農場や虫や鳥や音楽や動物や人物や海や万象を移動カメラによって眼いっぱいに展開させる。光と音への異常な感受性によって適確に自然を一巻に凝縮した東北以北の純粋トーキー。彼こそ日本始まって以来のカメラマンである。彼のカメラに映った雲を詩集からひろって列記しよう。

 ・氷河が海に入るように白い雲のたくさんの流れは 
 ・向こうの縮れた亜鉛の雲へ
 ・雲はたよりないカルボン酸  
 ・雲には白いとこも黒いとこもあってみんなぎらぎら湧いている  
 ・雲はみんなむしられて青空は巨きな網の目になった 
 ・白い輝雲のあちこちがきれてあの永久の海蒼がのぞいている 
 ・すなわち雲がだんだん青い虚空に溶けてたうたう今は、ころころ丸められたパラフィンの団子になってぽっかりぽっかり静かに浮かぶ 
 ・それにあんまり雲が光るので楽しく激しいめまぐるしさ 
 ・その小さなレンズにはたしかに樺太の白い雲も映っている 
 ・雲の光から恢復しなければならないから 
 ・鳥は雲のこっちを上下する  
 ・たしかに日はいま羊毛の雲に入ろうとして
 ・雲の海の果てはだんだん平になる 
 ・蒼鉛色の暗い雲からみぞれはびちょびちょ沈んでくる 
 ・雲はますます縮れて光り  
 ・うす月の雲をどよませ Mo! Mo! Mo!
                          (以下省略)

 読者諸氏よ。三百頁の中の雲はこれで終結ではないのです。しかし諸氏よ。これは一巻の映画「雲」にならないだろうか。又一つの単色交響楽「雲」あるいは一名"The glass-blue"

 時計が一時二十分を指している時彼は十三時二十分などとは決して言わないのに、彼の詩が比較的わかり難いなどの非を受けるのは、例えば一分間の作者の心象3を1ではなく3に表すからである。その偽らない告白によるのである。冷酷な作者の構えには触れず、飛躍する言葉に眩暈しがちなのである。彼は山師ではない。実に厳粛なリアリストである。

 日本には無数のヴァイオリンソロがある。その中で「春と修羅」は少なくともシンフォニー的である。チェロとヴァイオリンと小太鼓とビール瓶に風を吹き入れる時のぷうぷうと何かきらっと光る音と太鼓と遠くに聞こえる針の啼き声。

 人はそれぞれ新鮮な本体論をかんがえるだろうが、彼は学問をも恋愛をも動物をも「畢竟こころのひとつの風物です」と言う。彼の詩は、"Mental sketch modified"である。彼は彼の心象に映る風景の中の一点であるに過ぎない。主観と客観は相共に融合し、彼の全作品にまんべんなくにじんでいる。スケールの大がここからくる。

 僕らはよく知っている。詩はいたるところにあると。しかし「黄色い屁」以降、屁についてそれに匹敵する言葉(詩)を発見していない。「黄色い屁」は一つの古典である。山部赤人である。しかし別の新しい「黄色い屁」が詩人によって発見されるのである。ネオ「黄色い屁」僕らは初めて気付いて言う。「なんだ、そうか、毎日聞いていた屁じゃないか」
僕らは「春と修羅」の中に実に無数の言葉を発見する。朝の林の中のように無数に音を立てる「新しい」言葉のためにぐっしょりになる。

 新しい言葉とは我らの語弊になかった(また使い古された言葉でも息を吹き返す、即ち化身した古い言葉)しかも唯一的確な言葉のことである。世界の文学一般は詩人達が言葉を発見し、文学者がそれを応用するのが大概の場合の例と言っていいのである。


  「詩人宮沢賢治の成立」 天沢退二郎  1968年  (抜粋)

 まさに書いていた時の宮沢賢治の孤独は、単に当時の詩壇や文壇からの孤立に存したのではない。また、ほぼ同じ時期に賢治の文学と深部で照応しあうはずの試行を進めていたフランツ・カフカやアンドレ・ブルトンの営為からの殆ど絶対的な孤絶に存したのでもない。それらの事情をはるかな背景としながら、賢治に於ける「書くこと」のプライヴェートな射程がついに一人の真の標的・真の読者の影もないままに始終した・・・まさにそのことの意識の中で彼の詩作品、詩作行為が進行した徹底的な事情にこそ、宮沢賢治の孤独が存するのである。表面には逆に、力強い肯定性と透明度の高さ、華麗な美文を押し立てて、本質的に語りかけのきらめきを満たした賢治作品は、ついに詩人の死にいたるまで「友一人なく」、即ち語りを聞く者の徹底的不在の上にかけわたされた、その存在性のイマージュであり続けたのだった。

 (中略)

 語りの自己探求の筋道は、まったく反対方向でありながら結局不可分の関係にある二つの行き方に沿って進められる・・・語りが拓いていくまったく未知の時空への道と、語り自身の起源、オリジンへの遡行の道と。

 (中略)

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、一人で通りかかったり、十一月の山の風の中に震えながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないとうことを、わたくしはそのとおり書いたまでです。(注文の多い料理店 冒頭)

 (中略)

 このおはなしは、ずいぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹き飛ばされてきたのです。氷がひとでや海月やさまざまのお菓子の形をしている位寒い北の方から飛ばされてやってきたのです。(氷河鼠の毛皮)

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