巻頭言は何とか書き上げることが出来た。今月も苦労した。文才の無さ、ボキャブラリーの無さに辟易する。教務室はまだ煌々と明かりがついている。表紙や裏表紙のデザインにも余念がない。
特に、寺報の編集は岩澤清従師のご奉公によるところであり、最後の最後に永田印刷さんにお渡しするまで、責任を持って作業を進めてくれている。きっと、彼が眠るのは明日の10:30過ぎだろう。
法華経には「五十展転随喜」と説かれ、何より「伝える」ということを大切な修行とする。一瞬の声、そのままでは消えて無くなってしまうのだが、上行所伝の御題目の功徳による信仰体験、経験的事実を一人でも多くの人にお伝えしたい、その思いが寺報編集の原動力になっている。教務諸師が御講にボイスレコーダーを持ち、デジカメを持ち歩いているのは有難い。すでにご信者方も、恥ずかしがらずに自分の思いを語ってくださるようになった。御利益をいただいても人に伝えなかったら「慳貪(けんどん:ケチのこと)」であり、「とっくり信心(徳利の形と同じように下は大きくても口が小さい)」になってしまうのだから。
その寺報も、読んでくれているのか、読んでくれていないのかは分からない。しかし、相手の反応を見て一喜一憂するのは「ご奉公」ではない。ご奉公は、「させていただく」のである。しかも、こうした「寺報」は今ここに生きている人に対して書き、まとめているだけではなく、未来永劫に残るのだと信じたい。つまり、未来の妙深寺に生きる方々も、いつか読んでくださると信じているのだ。これほど有難いことはないではないか。ご奉公に報われないことなどない。させていただいたご奉公の功徳は、誰がなんと言おうと誰も取れず、火にも焼けず、水にも漂って流されることなどないのだ。
とはいえ、「教務は前歯」と言われる。お寺の本堂内陣に列する教務とは、お参詣するご信者方から見れば「前歯」。前歯が抜けていたら、普通の人でも恥ずかしいではないか。だから、朝のお参詣には、「自分は前歯だ」と思って張り切って勤めることが大事。徹夜では苦しい。現実的に過密過ぎるご奉公の場合、無理な日もある。明日は編集作業に加わっていなかった教務陣が気張ってくれると思う。
すでに5:00に近い。少し休ませてもらおうと思う。朝焼けの横浜から。
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