2007年5月14日月曜日

声塵為経、、、チャンティング

サン・スタジオの部分で、「南無妙法蓮華経の仏教」は「音」というようなことを書いた。何を言っているのか分からない方のために、風邪の身体にムチを打って書き足してみたい。妙深寺報の巻頭言・eyesでも書いたことなので、それからコピペしようと思うが。

 仏道修行には大きく分けると、「口唱(チャンティング・Chanting)」と「禅定(瞑想・メディテイション・Meditation/ミュージィング・ Musing)」という二つの修行がある。古来からキリスト教では、イエスやマリアを想う修行「瞑想」があり、それに呼応して「禅(ZEN)」は西欧で広く受け入れられた。しかし近年になって、むしろ「口唱」に強い関心が寄せられてきている。
 都会の喧噪の中に生きていれば、静謐を得られる瞑想や健康志向の好みに合うヨーガの方が現代人に親しまれやすいのかもしれない。お祖師さまの出身国である日本で、口唱(チャンティング)の価値や妙味が忘れられているとすると、残念だ。

 口唱も禅定(瞑想)も、ブッダ釈尊の覚りの世界に共鳴しようとする修行に他ならない。その智慧(ブッダの覚り)や果報(修行の成果として得られるもの)をいただき、もう一段上の自分を求めている。多くの人は、眼が開いていても見えていない、木を見て森を見ず、森を見て木を忘れるという悪循環を繰り返す。ある意味で全て虚像(バーチャル)に右往左往している状態と言える。これでは、単に知覚できていないのではなく「生きていない状態」であるから、ブッダ釈尊の境地に近づき、真の知見を得て生きる、軽快な心と体を得て、不安や迷いから解放されようと願うのである。仏道修行では、森羅万象が一つに結ばれていることを知り、宇宙が自分と直結して力を与えてくれているという体験をすることになる。
 世界中の人にこのような体験が出来れば、真の幸福や平和が訪れ、人々が心豊かに生活できるに違いない。それこそ仏教の目的である。

 禅定(ZEN)は、菩提樹の下でブッダが覚りを得たということから重要な仏道修行として認識されてきた。臨済宗の栄西上人は「教外別伝・不立文字」を立て、御経文は月をさす指(覚りをさす指)として、脇に置いた。経文や文字を用いず、「以心伝心」で坐禅による自己の本性こそ仏そのものであるとした。
 曹洞宗の道元上人はさらに一歩進めて「只管打座」を掲げ、ただひたすらに坐禅に打ち込むことが最高の修行であるとした。しかも瞑想をも否定し、坐禅はその遙か先にあり、「無」を感得し永遠に坐禅し続けることを教えている。
 ニューエイジ系ワークショップ(瞑想教室)では、より開放的で気軽なものもある。しかし、結果流行のサプリメントと同じように長続きせず、ごちゃ混ぜの修行で迷いを深めたという声の方が多い。第一、果たしてブッダ釈尊の真意がそこにあるかという疑問は残る。

 目的は同じでも、御題目口唱(「ナムミョウホウレンゲキョウ」と口から唱えだし、唱え重ねること)はこれと完全に異なる。それは真の瞑想・禅定であり、ヒンドゥーと同化したものでもヨーガでもなく、仏教そのもの、シャカムニブッダの教えそのものである。

 世界的にブッダの真意を求める動きが活発になり、当然法華経と口唱に関心が集まるようになった。なぜなら、その法華経を最も体現された方こそ、極東の国、日本に現れたお祖師さま(日蓮聖人)であり、その御生涯と教えを聞けば、現代の私たちにとって御題目口唱こそ、ブッダが法華経に遺された唯一の修行であると認識できる。

 そもそも、瞑想は危険を伴う。宗教的エリートやある程度の準備や環境が整わなければ本来は完成されない。瞑想をして危険な状態になることは周知のことである。天台大師が魔事境や病魔境と述べられたのはこのことで、恐怖感や心がスッと何者かに乗っ取られてしまうことすらあるだろう。元来、根底で共有する部分があっても、「教え」が忘れられているからだ。

 チベット仏教のニンマ派では、「倍音声明(オーバー・トーン・チャンティング)」という修行が伝えられている。集団で「ウ」→「オ」→「ア」→「エ」→・・・と連続的に発声し密度の高い振動を起こして音を倍加し、自己内外の活性化を図るというものである。

 あるいは、観音菩薩の名を唱え、「南無阿弥陀仏」や「ギャーテーギャーテー…」という般若心経の陀羅尼(呪文)や空海が唱えたと伝えられる虚空蔵菩薩求聞持法の真言など、口唱行(口業)の効能に着目した修行を挙げれば切りがない。「声塵為経」などと難しい話をしても仕方がないが、口唱は仏道では最重要の修行に違いない。

 心は、なかなか一つにならない。当然、ブッダ釈尊と私たちの心が一つになることは極めて難しい。ブッダのおられた時代は、教えは「説かれ」「聞かれた」のである。その後、御経文にブッダの言葉は写され「読まれた」。世界各地に置かれた梵鐘は、ブッダの発する「音」「声」と考えられてきた。「声、仏事を為す」がマントラを唱える所以である。私たちの声はブッダ釈尊の声そのものとなり、ここでブッダと私が一体となる。

 しかし、そのままでは口唱行は、どのような言葉を唱えても良いということになる。仏教でなくても良いということになる。そうではないのだ。

 法華経に説かれたブッダ釈尊の御法門は、特に後半に至りブッダ滅後の人々に対して説かれている。
 根元の法を示され、それを伝える人を明らかにされ、滅後二千年後の人々の能力に合わせた修行法を託された。この法華経に於いて根元の法を託された御方、聖なる「音」「声」を伝えられた方こそ、私たちのお祖師さまなのである。

 そのブッダ釈尊の「音」「声」は「南無妙法蓮華経」という音声に極まる。至極の「口唱(チャンティング)」とは、この御題目を唱えることに他ならない。

 瞑想は、どこまでも個人の修行、内面に向かう修行である。口唱は外に向かう、他と一つになる修行。経文を無視し、盲目に修行しても共鳴する相手を間違える。口唱は、本質的に謙虚であり、現実世界に活かす、真実の仏道修行である。瞑想を提唱する人の中には、最後のブッダの説法「自灯明(自己を島(灯明)とせよ)」を用いて、他に依存せず瞑想せよと勧めるが、ブッダは続けて、「法灯明(法を島(灯明)とし他のものを拠り所とせずにあれ)」と説かれたのだ。法を否定して、ブッダ釈尊の世界に共鳴できようはずが無い。

 口唱は誰でも出来る。リズムに合わせて、御本尊に声をお供するイメージ。チャンティングは国境を越え、言葉の壁を越え、音として一つになる。それは自分の心を一つにし、人と人を一つにし、全ての人を一つにすることが出来る。まるで「音楽」の持つ力と同じように。

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