昨日は乗泉寺世田谷別院での佛立第8世講有・日歓上人の祥月ご命日法要が営まれた。
この世田谷別院は、晩年の日歓上人がお過ごしになった場所であり、妙深寺初代ご住職の日博上人は日歓上人から「誰が何と言おうと正深が一番好きじゃ」と言われていたとのことで、何度も何度も通われた場所。日博上人はいつも日歓上人に教えていただいた一言一言の御指南を書いたノートを持たれていたという。
そのことを思い返しながら、お参詣させていただいた。
明治2年(1869年)5月2日、京都市の田中家に御生まれになり、明治の中頃にご信心に出会い、随喜してお教化に気張られ、明治27年に4世日教上人のお姿に随喜して得度を決意された。日歓上人は2世日聞上人にご剃髪を受け、僧名を清歓といただかれた。4世のお弟子として大津佛立寺でご修行され、東京に戻られてからは浅草清雄寺にてご奉公。明治34年、東京乗泉寺住職に就任。本門佛立宗の関東一円のご弘通の中核として、現証に次ぐ現証によってご奉公され「日本第一の弘通家」と称された。乗泉寺門末百ヶ寺建立の基礎を作られれ、昭和19年5月30日、御歳76歳で御遷化。
日歓上人は、乗泉寺でご奉公されるようになった時、3つの決意と誓願をされたという。
「私は日本国中、誰にも負けないように御弘通させていただこう」
「私は日本国中、誰にも負けないようにたくさんお看経をさせていただこう」
「私は大尊師(開導聖人)の御教えのとおりに、信心で通させていただこう」
というものであった。その誓願のとおりに日歓上人はご弘通ご奉公に挺身され、数多くのご信者に現証の御利益を感得させ、乗泉寺は大発展を遂げた。御弟子も130人近くまでお育てになった。
御唱導は横谷御導師だったが、不思議なことに御法門の中で日博上人の「コーヒーの壺」に触れていただいた。
横谷御導師は、昭和18年に得度をさせていただいた時、最晩年の日歓上人にご挨拶をするために、この世田谷別院を訪れたという。床に伏されていたが、起き上がってくださり、御法門を頂戴した。
その時の御法門は、第2世日聞上人のお示しになった御歌であった。
「為す業(わざ)は末(すえ)をたのしみつとむべし ゆめにも見るな今の苦楽を」
と教えていただいたという。
善因善果、悪因悪果。いましっかりと生きていれば、必ず未来が良くなる。人間は今の苦楽、今の出来事に一喜一憂してなすべきことを為せない、果たすべきことを果たせない、幸せの種まきができない。ゆめゆめ、そのような生き方をしてはいけない、と教えていただいた、と。
有難い御指南、御法門であった。
日歓上人の足下にも及ばぬが、何とか「今の苦楽」に一喜一憂せず、いま自分に出来る善き種まきをさせていただきたいと思う。
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